なぜ豊臣秀吉は天下をとれたのか。歴史学者の平山優さんは「織田体制を分裂させ、その後に起きた小牧・長久手合戦に勝利したからだ。この合戦は、勝者が天下を掌握する、まさに『天下分け目の戦い』だった」という――。(第1回)
※本稿は、平山優『小牧・長久手合戦』(角川新書)の一部を再編集したものです。
清須会議後の大問題
天正10年6月27日の清須会議が終了し、「織田体制」(「清須体制」)が成立したのだが、まもなく不協和音が露わになっていく。
その始まりは、天正壬午の乱で北条氏に敗れ、信長から与えられた上野国と信濃佐久・小県郡を喪失した滝川一益である。一益は、苦心のすえ信濃を経由して、7月1日に伊勢長島城に帰還したという(『木曾考』他)。
しかし、すでに清須会議は終了しており、織田領国の再編成も実施された後だった。この時の一益の所領が、北伊勢五郡そのままだったとは思えない。彼が帰還した長島城も、上野国に入国した後まで一益のものであったことを確証する史料はない。通常、信長は所領を与えると、旧領は接収していたはずなので、一益が北伊勢五郡をそのまま保持していたとは考えがたい。
つまり、一益は一切の所領を失ってしまった可能性があるのだ。『太閤記』には、一益も清須会議の結果、5万石を加増されたとあるが、そのような形跡は認められない。
当然一益は、織田家宿老衆に知行の加増を求めた。ところが、すでに織田領国の再編は終了した後であり、天正壬午の乱の結果、東国の旧織田領国は、徳川家康が甲斐・信濃(北信濃の上杉領国を除く)を回復したものの、上野国は失陥してしまい、しかも織田方に2カ国が戻ったとはいえ、これはあくまで家康が自力で切り取った徳川領国に他ならなかった。
一益が、以前支配していた規模に見合う所領を、確保することは困難であった。