信長の次男・信雄の野心
丹羽長秀は、一益の言い分を認めたらしく、織田家の「御台所入」(蔵入地)を削ってでも、その要求に応じるべきだと、秀吉に求めたようだ。秀吉は、8月11日に長秀に返書を送り、滝川の言い分はわかったが、領地配分が決定してしまっている現状では、今や織田家の「御台所入」(蔵入地)を減らす以外に方法がない。だが、それを減らすことは、織田家の将来に不安があるし、諸将に応分の負担を求めると、それでは皆への影響も大きいと述べ、これは滝川だけの問題ではないので、宿老衆とよく相談する必要がある、と記し、明確な回答をしなかった。
結局、一益への待遇は棚上げされたままとなり、彼は不満を募らせることとなる。
続いて、信雄と信孝の対立が露わとなってきた。清須会議終了後の6月下旬、織田信孝は、伊勢国神戸城から美濃国岐阜城に入り、領国統治を開始した。信雄は、7月、北畠氏の居城である伊勢松ヶ島城から、尾張清須城へと本拠を移した。
織田家の本国尾張にある、かつての本拠清須に移ったことで、信雄は織田一門の序列に相応しい場所を得たことになる。信雄が、「北畠」から「織田」に復姓した時期ははっきりしないが、これが契機ではないかと考えられる。
兄弟対立のきっかけ
そして、翌8月、遂に信雄と信孝の対立が始まるのである。対立の原因は、尾張・美濃の国境問題であった。信雄は、尾張・美濃国境を「国切」(境川を境界とした伝統的な国境)とし、信孝は「大河切」(木曾川の本流)を国境とすべきと主張したのである。信孝は、交換条件として美濃国可児・土岐・恵那郡の南部を割譲すると提案した。
これが問題となったのには理由がある。尾張・美濃国境の境川(古来からの木曾川、以下、古木曾川)は、戦国期になると尾張国前渡で分流した流路の方が水量も多く、本流となったらしい。そのため、戦国期には、境川は「飛驒川」、「大河」は「木曾川」と呼ばれ、区別されるようになっていた。両国の境界が木曾川であるとするならば、天正10年当時、本流となっていた「大河」(木曾川)であるべきだ、というのが信孝の考え方だったようだ。
しかし、「大河」(木曾川)に国境を設定し直した場合、境川(古木曾川)と木曾川とに挟まれた川西地域を支配する坪内・伏屋・不破・毛利氏らが美濃の信孝のもとに編入されてしまうこととなる。当然、信雄は、信孝の要求を一蹴したものの、対立は激化するいっぽうであった。
これに対し、織田家宿老衆の意見は分かれた。なんと秀吉は、信孝の要求を認め、「大河切」に賛意を示し、柴田勝家は信雄の「国切」を支持したのである。