クーデターで分裂した「織田体制」
つまり、織田家宿老衆と傅役五人のうち、3人が合意した形をとったわけだ(池田恒興も息子照政を葬儀に出席させているので、賛成したのだろう)。
そして秀吉は、養子秀勝(信長の五男)を喪主とし、三法師、信雄、信孝、勝家にも出席を求め、葬儀を執行した。彼らは、いずれも出席せず、信雄・信孝兄弟は、葬儀を中止させるために京に攻め込んでくるとの噂が流れたほどだった(『晴豊記』)。
葬儀終了後、秀吉は次なる一手を打った。信孝が三法師を離さぬ以上、秀吉にいかなる事情があろうと、彼との対立は、すなわち主家織田家への反逆となってしまう。
このジレンマから脱却するために、秀吉は、10月28日、京の本圀寺で丹羽長秀・池田恒興と会談し、三法師を信孝が離さぬ現状では、「織田体制」が機能不全に陥ってしまっているとして、三法師が成人するまで、信雄を「名代」とし、彼を時限的な織田家の家督に据えることに決めた(『蓮成院記録』『兼見卿記』他)。
この合意は、ただちに同盟国であり、織田一門大名でもある徳川家康に伝えられ、家康はこの決定に同意している。
この結果、暫定的ながら、三法師に代わる織田家家督信雄が誕生することとなり、それを秀吉・長秀・恒興の三宿老が支え、堀秀政もこれに参加する体制が整えられた。そして、信孝と勝家は、ここから排除されたのである。
ここに、清須会議による合意の枠組み(「清須体制」)が崩壊し、「織田体制」は分裂した。この決定を、秀吉らのクーデターと呼ぶ研究者もいるが、その通りであろう。