京で起きた混乱
これは、信雄と信孝が対立したもう一つの要因と、密接に絡んでいた。
実は、岐阜城を受け取った信孝は、幼主三法師を抱えたまま、離さなくなったのだ。清須会議の決定では、三法師は、安土城に移ることとなっていた。ところが、安土城は、本能寺の変後の6月15日に謎の火災で焼失していた。
ただし、焼失したのは、壮麗だった天守と本丸のみで、それ以外は焼けてはいなかった。だが、天下の政庁に相応しい状況に戻すべく、丹羽長秀が再建に奔走していたが、思うように進まなかったらしい。
安土城再建が遅延するなかで、信孝は三法師を自らの手中に置き、あたかも信長の後継者であり、かつ天下人に相応しい人物として振る舞うようになったという。そればかりか、信孝は、京の公家衆、門跡、寺社への継目安堵状を発給し始めたばかりか、訴訟への対応も始めていた。
これは、完全に清須会議の決定からの逸脱であり、とりわけ山城国を領有し、京の統治に携わる秀吉への干渉となった。明らかに、信孝の越権行為が始まったわけだ。これに対抗するように、秀吉は、山城国に山崎城を居城とするための普請を開始し、統治者が自分であることを京の人々に示そうとした。
それでも秀吉が信孝を支持したワケ
こうした混乱のなか、秀吉が、濃尾国境問題で信孝を支持したのは、三法師と信孝を引き離すため、信孝に忖度したからだろう。
だが、秀吉が山城国に築城したことは、信孝と勝家を刺激した。それは、天下の中枢たる京への支配力を強めようとする秀吉への反発となったからである。
こうして、信雄と信孝、秀吉と信孝・勝家という対立が始まり、「織田体制」の内部抗争は激しくなった。当時、これは「上方忩劇」と呼ばれ、この結果「織田体制」は、総力を挙げて北条氏と戦う家康に、援軍を送ることが出来なくなったのである。
こうした抗争が激しくなってきたなか、秀吉は、天正10年10月15日、織田信長の百ヶ日法要(葬儀)を京の大徳寺で実施した。信長の葬儀は、早くから実施が望まれており、秀吉がこれを強く求めていたが、「織田体制」の内部抗争によりまったく実現しないまま、時間が経過していた。
信長の葬儀については、信雄も秀吉主導で実施されることを嫌ったため、信雄・信孝兄弟、柴田勝家は賛同しなかったらしい。
そこで秀吉は、9月、京の本圀寺で、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一らと協議し、信長の葬儀を実施することで合意を取り付けた。