※本稿は、松崎いたる『日本共産党 悪魔の事件簿』(Hanada新書)の一部を再編集したものです。
転覆した2隻の抗議船
「引き返すべきだった。すごく後悔しています。予想以上に、ここまでの高波が来るとは思わなかった」――生き残った平和丸の男性乗組員はテレビ局のインタビューにこう答えている。
事故は2026年3月16日、在日米軍基地の拡張工事が進む沖縄県名護市辺野古沖で発生した。高波の影響で、小型船2隻が相次いで転覆した。
最初に転覆したのは、午前10時10分ごろの「不屈」(全長6.27メートル、1.9トン)である。後方を航行していた「平和丸」(全長7.63メートル、5トン未満)は、救助のため現場に接近したが、約2分後に転覆した。
2隻には、修学旅行のために沖縄を訪れていた同志社国際高校(京都府京田辺市)の生徒18人と乗組員3人の計21人が乗船しており、全員が海に投げ出された。このうち、不屈の金井創船長(71)と、平和丸に乗っていた女子高校生(17)の2人が死亡した。ほかの生徒も骨折などの大けがを負った。
現場はサンゴ礁の縁に位置し、水深が急激に浅くなる海域で、うねりが高波へと変化しやすいとされる。こうした海況の中で、平和丸が生徒らを乗せたまま転覆現場に向かった判断については、結果として重大な影響を招いてしまった。
なぜ海保に救助活動を任せなかったのか
平和丸の船長について、海上保安庁は、冷静な判断を欠いた状態で救助に向かった可能性もあるとみて、業務上過失致死傷の疑いで捜査している。
この「平和丸」船長は、日本共産党沖縄北部地区委員会農林漁業対策部長の肩書を持ち、今帰仁村村議会議員選挙に党公認候補として立候補したこともある人物だった。
女子高校生の命がなぜ奪われたのか、事故の真相解明は「平和丸」船長の証言が鍵を握るが、彼は公の場で自ら説明しようとはしなかった。ただ、事故翌日の17日、「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」(オール沖縄)の非公開会合で、「(先に転覆した『不屈』を見て)パニックになった。助ける以外ないと思った」と報告したことが伝えられている。
「助けるため」というが、事故は巡視船1隻とゴムボート10隻で警戒中の海上保安庁の目の前で発生しており、「平和丸」が救助に向かわなくとも、海保が迅速に救助に急行していたのである。しかも、最初に転覆した「不屈」には法定の最大定員10人のところ9人が乗船しており、「平和丸」にも最大定員13人のところ「平和丸」船長と乗組員を含め12人がすでに乗っていた。
その状況で「不屈」乗船の高校生らを海から引き揚げることは、「平和丸」に乗船していた他の高校生らをさらなる危険に晒す行為だった。海保に救助活動を任せることが、「平和丸」に乗船していた高校生たちの命を守るためにも必要だったのである。

