ある対象を熱狂的に推す人たちは、時にその対象を「神」と呼ぶ。では、彼らは神を見た時、どんな行動をとるのか。1994年7月に刊行された同名書籍を新装復刊した、ナンシー関『信仰の現場』(星海社新書)より、「矢沢永吉コンサート」にまつわる章を紹介する――。(第1回)
矢沢永吉のコンサート会場にある喜怒哀楽
註:記事の内容は、執筆当時のものですので、現在の情報と異なる場合があります。
何かを盲目的に信じている人にはスキがある。自分の状態が見えていないからだ。しかし、その信じる人たちの多くは、日常生活において、そのスキをさらけ出すことを自己抑制し、バランスを保っている。
だが、自己抑制のタガを外してしまう時と場所がある。それは、同じものを信じる“同志”が一堂に会する場所に来た時だろう。全員が同じスキを持っているという安心感が、彼らを無防備にさせる。日常生活では意識的に保とうとしなければ「傾いている」と世間から非難される彼らのバランスも、その場ではその「傾いたまま」の状態で「正」であるという解放感。肩の荷をおろしたように無防備に解放されるのである。
こういった「お楽しみのところ」に、大変恐縮ではあるが、私が潜入させていただく、というのが主旨である。そこには日常生活とは別のパラダイムが存在するはずである、という予測のもと、彼らの信仰の現場の喜怒哀楽、悲喜こもごもをお伝えできたら幸いと思っている。
さて、そんなこんなの記念すべき第1回目の現場は、「矢沢永吉のコンサート会場」だ。これは、しょっぱなにふさわしい大ネタであるとともに、主旨を理解していただくのにも非常にわかりやすい物件である。当然の選択、ワンアンドオンリーだ。