家庭内におけるパワーバランス
むろん、そうした諸々を、倫子自身も十分認識していたと思われる。寛弘5年(1008)10月1日、のちに後一条天皇となる敦成親王誕生後の、五十日の儀が行われた日のことである。『紫式部日記』によれば、道長は次のように語ったという。
「宮の御ててにてまろわるからず、まろが娘にて宮わろくおはしまさず、母もまた幸ひありと思ひて、笑ひ給ふめり。よい男は持たりかしと思ひたんめり(中宮の父親として、私はかなりのものだし、私の娘として中宮もかなりのものでいらっしゃる。中宮の母(倫子)も運がよかったと思って笑っておられるようだ。よい夫を持ったと思っているのだろう)」
だが、それを聞いた倫子は、不機嫌になって席を立ってしまったのである。この場面は、あまりはっきりとではないが、「光る君へ」でも描かれていた。
要は既述したように、摂政兼家の息子とはいっても五男にすぎず、官位もたいしたことがなかった道長は、自分と結婚できたおかげでいまの地位と権力を得ることができた。2人の住居の土御門殿にしたところで、元来は自分の父母のものだ。ところが、この夫は自分と両親の恩を忘れて、自分が「よい夫を持った」と思っている、などと能天気なことを口にしている。とんだ勘違いだ――。倫子はそういう思いだったと考えられる。
90歳まで生きた驚異的な長寿
しかも、倫子の主張はいちいち当たっているから、道長も反論できない。道長には次妻である明子とのあいだにも4男2女をもうけたが、倫子所生の子供たちを露骨に上にあつかった主な理由は、自分を支えて権力をもたらしてくれた倫子を立てることにあったと考えられる。
また、敦成の五十日の儀の少し前には、倫子は臣下としては事実上の最高位である従一位に叙されている。女性が従一位になるのはきわめて例外的だった。しかも、このとき道長は正二位のままで、位階で妻に抜かれている。
じつは、最初は道長が従一位を打診されたのだが、辞退して倫子に譲ったのである。彼女はそれくらい、道長にとって大事な女性だった。敦成親王が即位した長和5年(1016)には、倫子は三后に準じる准三后になっている。
その後、万寿4年(1027)12月4日に、2歳年下の道長が死去したのちも、彰子を除く3人の娘に先立たれながら生き永らえた。亡くなったのは天喜元年(1053)のこと。すでに孫の御朱雀天皇と四女の嬉子のあいだに産まれた後冷泉天皇の御代になっていた。享年90だった。