息子に語った「結婚すべき女性の条件」
そこに現れたのは、正妻の倫子(黒木華)だった。「殿のご出家を強くお止めいたしましたけど、いまのご様子を拝見すると、これでよかったと思います」と道長に伝えた。
あらためて言うまでもないが、道長とまひろの恋愛は「光る君へ」の脚本を担当した大石静氏の創作である。紫式部という、史実としてわかっていることが少ない女性を描くのだから、時の権力者との恋愛でもからめないとドラマが立体的にならない、という事情はわかる。だが、視聴者がそこを注視しすぎても、道長の権力の実像や『源氏物語』の誕生の背景などを見誤りかねないから、難しいところだ。
では、史実において、道長に最大の影響をあたえた女性はだれだったのか。それはやはり倫子においてほかにない。
左大臣だった源雅信の長女である倫子と道長が結婚したのは、永延元年(987)12月のことだった。道長が22歳、倫子が24歳のときである。雅信は宇多天皇の孫で、倫子はどう見ても道長には不釣り合いな嫁だった。時の権力者たる藤原兼家の息子とはいっても、道長は末っ子の五男坊で、このとき左京大夫にすぎなかったからである。
しかし、道長はこの結婚で、宇多天皇につながる高貴な血と、左大臣の後見と、道長の権威と権力の舞台となる土御門殿を手に入れた。この3つのいずれが欠けていても、道長の栄華は実現しなかったかもしれない。
だから、のちに道長は長男の頼通に「男は妻柄なり。いとやむごとなき辺りに参りぬべきなめり(男は妻の家柄次第だ。きわめて高貴な家に婿取りされるのがいいだろう)」と助言したのである(『栄花物語』)。
「望月の歌」を詠めたのは倫子のおかげ
だが、倫子の長所は家柄だけではなかった。
結婚の翌年の永延2年(988)には、倫子はもう長女の彰子を出産している。その後の子作りも理想的だった。正暦3年(992)に頼通、正暦5年(995)に姸子、長徳2年(996)に教通、長保元年(999)に威子が誕生。寛弘4年(1007)に末っ子の嬉子を産んだときには、倫子はもう44歳になっていた。
出産で命を落とすことも多かった時代に、44歳まで無事に子を生み続けたのは、驚異的な健康体だったからだろう。また2男4女というバランスも絶妙だった。男子が多いとどうしても後継者争いが起きやすいが、2人なら最小限に食い止められる。一方、女子が多かったために、次々と入内させることができた。
寛仁2年(1018)10月16日、3人の娘を太皇太后、皇后、中宮の三妃に立て、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」と詠むことができたのは、ひとえに倫子のおかげだといえる。
また、このとき天皇(後一条天皇)は彰子の第一子であり、東宮の敦良親王(のちの御朱雀天皇)は第二子だった。つまり、ともに道長の外孫である。倫子が産んだ彰子もまた健康で、続けて皇子を出産できたから、道長とその一家は外戚として君臨することができた。それも、もとはといえば倫子のおかげだった。