戦国時代で最強の武将はだれか。歴史評論家の香原斗志さんは「九州の武将、立花宗茂だろう。彼の数奇な人生をみれば、武功に優れているだけでなく、知略、教養のレベルも非常に高かったことがわかる」という――。
「戦国最強武将」の意外なキャリア
戦国最強の武将はだれだったのか。人生のある時期にかぎらず、生涯にわたり最強と呼ぶべき力を発揮し続け、さらには子々孫々まで繫栄させることができたのは、立花宗茂を措いてほかにいない。
しかも、あの関ケ原合戦で西軍に与し、いちどは改易されながら、である。だが、知名度では必ずしも全国区の武将とはいえないので、生い立ちからざっと紹介していきたい。
生年には2説あるが、有力なのは永禄10年(1567)説で、大友義鎮(宗麟)の重臣だった吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の嫡男として、豊後国(大分県)の筧城(豊後高田市)に生まれたとされる。幼名は千熊丸で、反乱を起こして討伐された高橋家の名跡を父が継いだため、高橋家の跡取りとして育てられるが、結局、他家に出ることになる。
幼少期から剣術にも弓術にもすぐれ、初陣とされる石坂合戦において、父とは別に軍勢を率いて奮戦し、敵で勇将として鳴らした堀江備前を射たという名高い逸話がある。そういう宗茂(そう名乗るのは後年だが、混乱を避けるために最初から宗茂で統一する)を見て、養子に迎えたいと申し入れてきた人物がいた。紹運とともに大友家の猛将として知られた戸次(立花)道雪であった。
紹運は躊躇しながらも、高齢で男子に恵まれていない道雪のたっての願いを聞き入れ、天正9年(1581)8月、宗茂は道雪の養嗣子になった。