なぜ西軍に属したのか

宗茂が日本に帰還後、西軍に身を投じるまでの経緯は具体的にはわからない。いずれにせよ、慶長5年(1600)7月、大坂にいた五奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以らが徳川家康への弾劾状である「内府ちかいの条々」を出し、豊臣秀頼に忠誠を尽くすように説く連署状を発すると、宗茂はそれを受け入れた。

しかも島津義弘の書状によると、宗茂は1300人の軍勢を率いればいいところを、4000人を率いて大坂城に入った。その理由を義弘は「秀頼様に対したてまつる御忠誠のため、御軍役の人衆過上の由」と書いている。実際、自分を評価し取り立ててくれた豊臣家への忠誠心から、西軍に与したということなのだろう。

だが、関ケ原の本戦には加わっていない。9月3日、西軍に加わりながら東軍に寝返った京極高次を、居城の大津城(滋賀県大津市)に攻める軍に参加し、高次が降伏した9月15日に関ケ原での本戦が行われたからである。

西軍の敗戦後、『立斎旧聞記』などによると、宗茂は毛利輝元や増田長盛らに大坂籠城を説いたが、容れられずに九州に帰還。九州で東軍と戦ったが和睦交渉の末、10月25日に柳川城を開城した。

それでも柳川の領地が安堵されることを期待していたようだが、宗茂の旧領をふくむ筑後は田中吉政にあたえられることになり、立花家は改易に。宗茂は牢人生活を余儀なくされた。

ここからが「最強武将」の真骨頂

ここまでだけでも宗茂は、十分に「最強の武将」なのだが、むしろこの先こそが、宗茂の真骨頂ではないだろうか。

その間、加賀前田家などから招聘されたというが受けていない。なるべく京都に滞在し、江戸と京都や伏見のあいだを往復していた家康と交渉する機会をうかがっていたのだ。浪人生活が6年におよんだ慶長11年(1606)11月以降、ようやく奥州棚倉(福島県棚倉町)に領土をあたえられた。

5000石からはじまって1万石に加増され、最終的に3万石に達している。その間、将軍秀忠の警護や江戸城の守衛などの「番方」を命じられ、徳川家からの信頼はかなり回復していたことになる。

大手門
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慶長20年(1615)の大坂夏の陣には秀忠の参謀として供奉し、毛利勝永の軍勢を防ぐなどの活躍が記録されている。翌年、家康が没する前後の重要な時期に、江戸城大手の守衛にあたっていたことからも、かなり重用されていたことがわかる。その後、将軍家の御噺衆にも選ばれている。

元和6年(1620)、ついにその日が来た。8月4日、柳川城主の田中吉政が継嗣のないまま死去し、田中家は改易になる。それを受けて11月27日、宗茂が柳川に再封されることが決定したのである。ちなみに、関ケ原合戦で西軍に加わって改易されながら、旧領の大名として復活できた人物など、ほかにだれもいない。

翌年2月28日、宗茂はおよそ20年ぶりに柳川城に入城した。石高は10万9200石。かつてより若干少ないが、さほど遜色ない。