家康の息子と並ぶほどの地位に
だが、それから寛永11年(1634)までのあいだ、宗茂はほとんど江戸で過ごし、柳川には3回しか下向できていない。大御所になった秀忠と将軍になった家光の覚えがめでたすぎて、あらゆる場所に相伴を求められ、暇をもらえなかったのである。種々の茶席はもちろん、二条城に後水尾天皇を迎えたときも相伴している。諸大名は羨望のまなざしを向けていたと伝わる。
山形の鳥居忠恒が重病を患い、国替えが近いという風聞が流れた際、代わって山形に転封になる候補として挙がったのは、宗茂のほか家康の外孫で養子でもある松平忠明だった。要するに、宗茂は家康の息子と並ぶほどの地位と信頼を勝ち得ていた、ということである。
その後も、秀忠が病に伏せば日々駆けつけ、秀忠の没後は家光の覚えがいっそうめでたく、たとえば、細川忠興は加藤清正の後継の忠広の改易についても、その他のお家騒動も、情報は宗茂から得ていた。宗茂が幕政の機密情報にいかに通じていたか、ということである。
こうした状況は宗茂が隠居したのちも続いた。宗茂が76歳で没したのは寛永19年(1642)11月25日で、床に伏してからの宗茂のことを、家光は周囲がいぶかるほど気にかけていたという。
明治まで家を存続させた
前述のように剣術にも弓術にも長け、兵法を心得、戦場で無双の強さを誇った宗茂だが、それだけではなかった。連歌、茶の湯、香道、さらには蹴鞠から狂言まで、文武を問わず広く芸達者だった。
芸があればこそ、あらゆる場でふさわしいふるまいが可能で、だからこそ天下人に相伴を求められる。忠義の心が認められ、そこに鍛えられた話術が加わって、なおさら信頼を勝ち取る。
このように万能であったからこそ、宗茂は関ケ原合戦で西軍に加わりながら、徳川幕府のもとでただ一人、旧領の大名として復活できたのだろう。子女には恵まれなかったが、弟の直次の四男を養子に迎え入れ、その忠茂に家督を継がせて、結局、立花家は転封されることも減封されることもなく明治まで存続できた。
このように全方位から評価したときに、戦国最強の武将は立花宗茂一択であるといえるのではないだろうか。