三菱は軍艦島の面積を3倍にし、どんどん人を集め石炭を採った
1890(明治23)年の買収以降、閉山に至るまでの約90年間にわたって、軍艦島は三菱の経営下に置かれることとなる。この買収までは、島の形状にはほとんど改変はなされておらず、島の面積は現在の3分の1ほどに過ぎなかった。三菱は、採炭時に生じる不要な岩石や廃石を有効活用することで、明治期に5回もの大規模な埋め立てを実施(その後、昭和期にも1回実施)。この拡張は、採炭作業用地の確保と、労働者の生活用地確保が目的だった。島本来の地形と周辺岩礁の配置を生かし、効率的に進められた。
1891(明治24)年には、蒸留水機や製塩機が設置され、労働者への飲料水配給体制が整う。さらに1893(明治26)年に、三菱社立尋常小学校が設立された。明治中期の島内は、島中央部の岩盤上に3〜4階建ての木造住宅が数棟、西部に住宅、北部には尋常小学校などの公共施設及び娯楽施設などがあり、東部に採炭作業場が置かれる配置だった。
その後、明治後期にかけては、1895(明治28)年に第二竪坑(深さ199m)完成、1907(明治40)年に高島との間に海底電信線設置など、石炭生産と生活インフラの強化が加速した。
大正時代に入ると日本最古のRC造アパートが建ち始める。クレーン式上陸桟橋も完成し、船舶への乗り移りがそれまでより容易となった。炭鉱では竪坑の数も増加した。
こうしてピーク時の1959(昭和34)年には総人口約5300人が住むようになった。1km²当たりの人口密度は約8万3600人で、当時の東京の人口密度と比較して約18倍に相当し、当時は世界一の人口密度を誇った。