「人工肛門のパウチも交換できない」兄からの電話
余命3カ月の重病になったら当然介護保険が使えるはず――と大抵の人は思っていることだろう。だが現実は厳しい。
「俺はもうダメだ。身体がつらすぎて、人工肛門のパウチを交換することもできない。これまで、いろいろ心配してくれてありがとう」
2023年7月末、筆者は他県で暮らす兄(当時65歳)から電話をもらった。兄は大腸がんの末期で、同年3月、余命6カ月の告知を受けていた。
数日前から在宅で3クール目の抗がん剤を始めていることは知っていたが、「人工肛門のパウチも交換できない」とはどういうことか。抗がん剤の副作用で何をするにも大変なのに、どうして訪問介護を受けていないのか。怪訝に思って聞き返すと、兄は弱弱しく答えた。
「介護保険は使えないんだ。人工肛門になったから障害者手帳はもらえたけど」
そんなことがあるのだろうか。
介護保険サービスが使えない
そういえば7月3日、兄の大学病院受診に付き添った際、兄は今困っていることとして褥瘡の痛みを訴えた。褥瘡とは床ずれのこと。寝たきりなどによって、体重で圧迫されている場所の血流が悪くなったり滞ることで、皮膚の一部が赤い色味をおびたり、ただれたり、傷ができてしまう。
ひどくなると患部の壊死により骨が見えるほど深く損傷する。人間の身体は、寝たきりで過ごすようにはできていないのだ。主治医は痛み止めの追加を提案し、筆者は褥瘡予防効果がある介護ベッドの使用を勧めた。
兄は黙って受け流した。
診察を終えて廊下に出ると、兄はふらつき、壁に手をついて歩く。以前細マッチョだった体は一切の肉が落ち、骨格だけが残っている。支えようと手を取ると氷水に手を入れていたように冷たかった。「大学病院は広いから、院内の移動だけでも車椅子が使えるといいね」と言ったが、兄は首を振った。
驚いたのは外に出て、兄が病院まで自分で車を運転して来ていたことを知った時だった。「痛みや貧血でいつ倒れるかわからないんだから、タクシーで来ればいいのに」と言うと、「ダメだよ。俺、女房に1円でも多く金を残してやりたいんだ。もう、俺のためには金を使いたくないんだよ」。
後から聞いた話では、兄嫁は、兄の詳しい病状も、抗がん剤の副作用が死ぬほどつらいことも知らなかった。10歳近く年下の妻に、心配をかけたくなかったらしい。だから事実を知らないまま、兄嫁は夫婦二人の生活を支えるために仕事を続けていた。
介護保険が使えていれば、訪問介護、介護ベッド、車いす、通院時のタクシー、すべて賄うことができたのに、どうして兄は使わなかったのか。
使いたくても使えなかったのだ。

