暗殺がさらなる“強敵”を生んだ
しかし、ハマスはその後、イランの援助を得て勢力を拡大し、ガザを支配するまでに成長していきました。これはヤシン師が生きていたら実現しなかったと考えられています。なぜなら、ヤシン師はイランとの協力には反対していたからです。
しかしヤシン師の死後、イランから大量の武器や資金援助を受けたハマスが2023年10月、イスラエルに対して前例のないほどの大規模な攻撃を行ったことは周知の通りです。つまり今のパレスチナにイランの影響力が浸透するようになり、ハマスが強化されたのは、イスラエルの暗殺がきっかけだったとも言えるのです。
確かに一時的には、暗殺が次のテロや攻撃を抑止し、いったんイスラエル市民が安全になるという短期的、戦術的な成功を収めることはありました。
しかし、長期的かつ戦略的に見れば、結局は報復の連鎖から抜け出すことはいっそう困難になりました。イスラエルとハマス、ヒズボラは今もその暴力の連鎖の中に閉じ込められたままです。イスラエルにとっての戦術的成功は、何度も戦略的失敗という結果になっているのです。ヒズボラとの北部での戦いにおいては、ヤシン師のような指導者の暗殺が、より過激で強力な後継者を誕生させるということもありました。
「二国家共存」はもはや絶望的
そもそも中東問題の「答え」は何年も前に出ています。軍事作戦や暗殺作戦だけに頼るのではなく、「パレスチナの人々の経済状況を改善させ、テロよりも対話に持っていくしか解決策はない」という戦略的な考え方です。かつては、この解決策への支持がイスラエル国内でも強まり、最終的な二国家解決という考えが打ち出されました。
長年、モサドの長官を務めたメイル・ダガンという伝説的なエージェントでさえも、最終的には暗殺や軍事力行使などの暴力的手段の限界、つまり戦略的失敗を悟った一人でした。ダガンは、もとは空挺部隊出身で、戦場での実績を積み上げ、ヒズボラ幹部の暗殺やイランの核開発阻止のための秘密工作などを指揮したことで知られるモサドの伝説的なスパイです。
そんな最前線で戦い続けた彼でも、最終的にはパレスチナ、イスラエルの二国家共存しか道はないと悟っていたようです。しかしダガンは結局、イランへの軍事攻撃を主張するネタニヤフ首相と対立し、2011年にモサドを去っています(2016年に死去)。