著者が中朝国境の町「延吉(ヨンギル)市」に向かったのは、いまから14年前、32歳のときだった。本書は著者のジャーナリストとしての出発点ともいえる「脱北の町」での長期取材から、金正恩体制になった現在までの北朝鮮を、緩めの筆致で描き出す読み物だ。
いまだに拉致被害者がいることを考えると、緩めというよりも等身大のルポといったほうがいいかもしれない。大阪市の公務員だった著者は、延吉市にある延辺大学へ語学留学するという名目で、脱北者の取材に向かう。まだ、脱北者という言葉がメディアでも使われ始めていないころである。
緊張で激しい動悸を覚えながら目的の町に到着した最初の関門は、極度の下戸である著者を取り囲む中国式の酒盛りだった。現地になれるための過程でプロサッカーの試合を見にいき、雇われ黒人キーパーが活躍しているのを見て驚く。取材協力者である脱北者や中国籍朝鮮族などと徹夜麻雀を楽しんだりもする。まるで終戦直後の東京の闇市のような情景が目の前で展開されるのだ。
1990年代には300万人ともいわれる餓死者を出した北朝鮮なのだが、同様に300万人以上の戦没者を出した直後の日本に似ているのは錯覚ではないだろう。生き延びるために日々食糧を探しまわるだけの生活が持つ独特の情景なのかもしれない。
とはいえ、北朝鮮内の闇市を撮影したビデオをメディアに公開し、脱北者の亡命支援などを行っていた著者は北朝鮮政府から指名手配されてしまう。秘密警察の国家安全保衛部が「223号作戦」という写真付きの指令書を発行したのだ。見つかり次第に拉致・殺害される恐れがある。
それほどまでして北朝鮮にこだわるのは、著者が在日コリアンだからだ。大阪朝鮮高級学校に通う筋金入りの朝鮮総連系学生だった。しかし、進学先の関西大学で李リ・ヨンファ英和教授に出会い転向する。「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)に参加したのだ。しかも、延吉市に向かう直前には意を決して「忘れ形見」のお子さんを仕込んでいる。
つまり、「コチェビ」すなわち北朝鮮から河を渡って脱北してきた孤児難民の取材者としては、その同胞性と小さな子供を持つ親の視点という両面で、最適の取材者だったのだ。著者にいわせれば脱北者は厄介で面倒な連中だが、同時に「いまを生きる」ために懸命に頑張っている「愛すべき人間」でもあるという。
朝鮮半島の歴史は長い間、他民族支配と圧政の繰り返しだった。そのため生き延びるために半島を出て在日コリアンになったり、脱北者になったりするものがあとを絶たなかった。どこかでこの悪循環を断たなければならない。そのためにも政治的なメッセージだけでなく、本書のように等身大の北朝鮮国民のいまを伝える必要があるのだとつくづく思う。