公卿たちの前で行った必死のパフォーマンス

寛弘5年(1008)9月11日、彰子が第二皇子で道長の孫にあたる敦成あつひら親王を出産すると、伊周の焦りは頂点に達したようだ。12月20日、敦成が生まれて100日の祝いの席でのこと。公卿たちが詠んだ歌の序題を行成が書こうとしていると、伊周が筆を取り上げ、みずから序題を書きはじめたという。

本朝文粋』に収められたその序題には、祝いの対象である敦成親王を「第二皇子」と呼んだうえで、隆周の王は暦数が長いが、わが一条天皇も暦数が長く子も多い。康なるかな帝道は云々、と書かれている。

すなわち、一条天皇には敦成親王のほかにも皇子がいると訴えつつ、道隆と伊周親子、および敦康のことを意識させるように「隆」「周」「康」の文字を入れ込んだのだ。倉本一宏氏は「敦成の誕生を祝う宴において、定子所生の皇子女、特に第一皇子である敦康の存在を皆に再確認させようとした、伊周必死のパフォーマンスだったのだろう」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。

それだけなら、冷めた雰囲気をつくり出すだけで終わったかもしれないが、伊周はその後もやらかしてしまった。

苦しみ続けた人生

翌寛弘6年(1009)正月7日、正二位に叙せられたが、正月30日、何者かが彰子と敦成親王を呪詛していたことが発覚する。捕らえられた伊周の外戚や縁者が、中宮(彰子)、若宮(敦成)、左大臣(道長)がいると、帥殿(伊周)が無徳になるので、3人がいなくなるように呪詛した、と自白してしまった(『政事要略』)。

敦康親王の外戚である伊周が正二位にまで上りつめたという事実は、敦成親王の誕生後であっても、道長へのプレッシャーになったに違いない。そこに起きた呪詛事件。

事件の当事者は、伊周の縁者も伊周自身も翌年には赦免されているので、呪詛なるものが事実だったかどうかも怪しい。しかし、いかにも呪詛しそうに見えてしまったのは、伊周の不徳の致すところといえようか。こうして伊周の政治生命は、ついに完全に断たれることとなった

それから1年後の寛弘7年(1010)正月28日、数え37歳の若さで没している。父道隆の権勢のもと、わずか21歳で内大臣にまで昇進した伊周。そのピークが忘れられないがゆえに、苦しみ続けたその後の人生だったのではないだろうか。

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