皇后定子の兄で、藤原道長の甥である藤原伊周とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「権勢を誇った藤原道隆の遺児で、わずか21歳で内大臣にまで昇進した。父の死後は、自滅ともいえる行為を繰り返し、政治生命を絶たれた」という――。
藤原道長、藤原伊周
左=藤原道長(画像=読売新聞社『日本国宝展』/Wikimedia Commons) 右=「石山寺縁起絵巻」第3巻第1段より藤原伊周(画像=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』/Wikimedia Commons)ともにCC-PD-Mark

定子の兄・伊周が道長を恨んだワケ

藤原道長(柄本佑)の姉で、一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)も、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)も逝ってしまった。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第29回「母として」(7月28日放送)。

この回の放送で、良くも悪くもいちばん存在感を示したのは、前の週に亡くなった皇后定子(高畑充希)の兄で、道長の甥である藤原伊周(三浦翔平)だったのではないだろうか。

兄弟で花山法皇に矢を射かけて自滅した長徳2年(996)の長徳の変以降、傾いた家の再興に必死な伊周は、「藤原の筆頭に立つ」との意気込みで、声を荒らげながら長男の松(小野桜介)を指導していた。それを見た弟の隆家(竜星涼)は、「兄上の気持はわかるが、左大臣(註・道長)の権勢はもはや揺るがぬぞ」と諭したが、伊周は「揺るがせてみせる」と言い張った。

さらには、自分が失脚し、定子が失意のまま命を落としたのも「左大臣のせいだ」と、強く思い込んで恨みを募らせ、夜な夜な道長を呪詛しはじめた。伊周の恨みは、道長に肩入れする詮子にも向けられ、詮子の病が悪化し、ついに命を落としたのは、伊周の呪詛が効いた結果であるかのようにも受けとれる描き方だった。

史実においても、呪詛の効き目が信じられていた節があるが、ともかく、詮子は息も絶え絶えに、道長に「伊周の怨念を収めるために、位をもとに戻して」と頼み、それを受けて伊周は、ふたたび内裏への昇殿を許されたのだった。

ところで、伊周の恨み辛みはこの先、ほんとうに収まるのだろうか。