道長に乗り移った「死霊」の正体

それぞれ太宰府(福岡県太宰府市)と出雲(島根県東部)に流された伊周と隆家の兄弟が、赦免されて都に戻ったのは長徳3年(997)の初夏だった。このとき、道長は早速手を打った。

三浦翔平
写真=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
2017年4月26日、イギリス・ロンドンのテート・モダンで開催されたオメガ スピードマスター誕生60周年記念イベント「Lost In Space」に出席した三浦翔平。

7月5日、道長は藤原公季を内大臣にし、左大臣道長、右大臣藤原顕光、内大臣公季という政権のトップの布陣を固めた。ねらいが伊周の復権を阻止することにあるのは明らかだった(伊周は失脚前、内大臣だった)。伊周ら中関白家が浮上できないのは「左大臣のせいだ」とする伊周の指摘は、外れていない。

だが、道長自身、みずからの伊周への仕打ちに疚しさを感じていたのだろう。長女の彰子を中宮にするのに成功してから3カ月ほど経った長保2年(1000)5月19日、藤原行成の日記『権記』によれば、道長に死霊が乗り移った。どうやらこれは、道長が伊周に感じていた疚しさと関係があった。

「死霊」の正体は、道長の長兄で伊周の父である道隆と思われ、道長の口を借り、行成に向かって次のようにいったという。「前帥を以て本官本位に復せらるべし。然れば病悩癒ゆべし(先の太宰権帥である伊周をもとの官職と官位に戻すことだ。そうすれば道長の病気も治癒することだろう)」。

伊周の怨念を収めるために、位をもとに戻す――。これは疚しさを感じる道長にとっても、頭を離れない事案だったのだろう。ただし、このとき道隆が乗り移った道長は、こうもいったという。「此の由を申すの次には、密かに人の気色を見るべし(このことを申すときは、こっそりと人の様子を見定めるように)」。

要するに、道長は兄の死霊の口を借りて、伊周を復位させることを一条天皇や公卿たちが望んでいるかどうか、探りを入れたとも受けとれる。

亡き定子が残した皇子

さて、「光る君へ」の第29回では前述のように、詮子が病没する場面が描かれた。これは長保3年(1001)閏12月22日のことで、6日前の12月16日、一条天皇は詮子の御所に行幸した。その際、天皇は伊周を正三位に戻すと決断をしている。ドラマでは、詮子が伊周の復位を頼んだのは道長だったが、史実では、一条天皇が直接うながされたようだ。

いずれにせよ、詮子の病悩の背景には、「光る君へ」で描かれたように、伊周による呪詛がある――。そんな意識を詮子と一条天皇は共有していたと考えられる。

次第に元来の官位と官職に近づいていった伊周だが、本人は昇進をゆっくり待つことはできず、前のめりになった。たとえば、一条天皇が定子の妹(つまり伊周の妹)である御匣殿みくしげどのに夢中になり、長保4年(1002)に懐妊させた際は、彼女を自宅に引きとって皇子の誕生を期待した。しかし、御匣殿は体調を崩し、出産前に息を引きとってしまうのだが。

それでも伊周には前のめりになる理由があって、そのことが道長にとっては悩みの種となった。それは、伊周が亡き定子が産んだ一条天皇の第一皇子、敦康あつやす親王の伯父だった、ということである。

【図表1】藤原家家系図