戦国時代の武将、松永久秀とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「戦国時代最大の梟雄として知られているが、近年の研究でその評価は大きく変わっている」という――。
太平記英勇伝:十四、松永弾正久秀
太平記英勇伝:十四、松永弾正久秀(画像=歌川芳幾/東京都立図書館/Hidden categori/Wikimedia Commons

「将軍を殺し、主君を殺し、大仏殿を焼き払った」

「下剋上」という言葉から、多くの人が真っ先に思い浮かべる人物のひとりが松永久秀だろう。私自身、かつては大嫌いな歴史上の人物の筆頭だった。なぜなら、重源上人が率いた復興事業により鎌倉時代初期に再建された東大寺大仏殿を、焼き払った張本人だと認識していたからである。

事実、江戸時代以来、そう信じられていた。それに久秀のマイナスイメージは、東大寺への放火にとどまらない。

信長公記』の作者である太田牛一による『太かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』には、13代将軍足利義輝を討ち、主君の三好長慶をそそのかして、その弟の安宅冬康を殺させ、その息子の義興を毒殺。また、信長の家臣になるも背き、東大寺大仏殿を焼いた報いによって焼死した、という旨が記されている。

また、戦国時代から近世初頭まで約50年間の武士の逸話を、江戸時代中期に備前岡山藩の儒学者、湯浅常山がまとめた『常山紀談』には、こう書かれている。

「東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長、この老翁は世の人のなしがたき事三ツなしたる者なり、将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり(徳川家康が織田信長と対面したとき、傍らにいた松永久秀について、信長は『この老人は常人にはなせないことを3つも行った。将軍を殺し、主君の三好(長慶の息子の義興)を殺し、東大寺大仏殿を焼失させた松永という人物だ』と紹介したので、松永は汗を流して顔を真っ赤にした)」