なぜ主君・信長を2度も裏切ったのか

その後、三好家が劣勢になって反三好勢力が活気づくと、いわゆる三好三人衆が久秀を排除。それからは三人衆との抗争が激化し、永禄10年(1567)4月、三人衆は奈良周辺に布陣した。そのまま抗争は続き、10月10日に久秀は、東大寺に陣を張る三人衆を夜討ちしたが、このとき火が広がって大仏殿に延焼したとされる。

冒頭で述べたように、これは久秀の所業のようにいわれてきたが、じつは、三好三人衆が火をつけたとする史料のほうが多い。「大仏炎上は、久秀梟雄説の証拠として挙げられることが多いが、実際は両軍の戦闘により起こった不慮の事故に過ぎず、しかも放火は当時の一般的な戦闘行為の一環に過ぎなかった」と、前出の天野氏は書く(前掲書)。

それからは隠居の身ながら再度立ち上がり、足利義昭や信長の上洛に尽力。大和一国を安堵され、功労者として幕府の有力な構成員になる。だが、義昭と信長が決別すると、久秀は義昭方につき、天正元年(1573)12月、織田軍に多聞山城を包囲され、城を差し出して降伏している。

こうして信長の家臣になったが、歯車が狂う。信長は久秀の宿敵であった筒井順慶に大和の支配を委ねたが、久秀はそれに耐えられなかったようだ。そのうえ、手塩にかけた多聞山城を、自身の手で解体するように命じられたことも苦痛だったに違いない。将軍義昭の上洛作戦に呼応して信長に離反し、息子の久通とともに信貴山城に籠城。天正5年(1577)10月10日、父子は腹を切って果てた。

戦国最大の梟雄は、じつはかなりの忠臣だった。だが、能力があるために破格の出世を遂げ、常識を超えた城を築き、それが非常識に映ったばかりに、梟雄と恐れられ、さまざまな風聞を生むことになった。リアルな松永久秀は、梟雄としてよりもむしろ才能あふれる時代の先駆者として、見直す価値がある。

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