近年の研究で「松永久秀像」は大きく変わった

将軍も主君も殺害し、大仏殿まで焼いたなど、まさに「世の人のなしがたき事」にほかならない。だから「梟雄」とはだれかという話題になると、斎藤道三らと並んで必ず名前が挙がる。以前も歴史雑誌が行った「『梟雄』と聞いて思い浮かべる歴史人物は?」というアンケートで3位だったが(4位以下に大差をつけていた)、戦国最大の梟雄というイメージを抱く人も多いだろう。

だが、近年の研究で、久秀像はすっかり変化を遂げたといっていい。

明応2年(1493)、室町幕府のナンバーツーである管領の細川政元は、10代将軍足利義材を追放して足利義澄を将軍に擁立(明応の政変)。以後、将軍家が分裂して畿内はもとより全国の政情は不安定になるが、畿内はおおむね細川家の勢力下に置かれる。

政元から2代目の細川晴元に仕えていた三好長慶は、天文18年(1549)、不甲斐ない晴元らの軍と戦って撃破した。これを受けて、13代将軍義輝も近江(滋賀県)に退却したので、長慶は摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)の国主になるとともに、京都を軍事的に占領。畿内最大の実力者になった。

三好長慶像
三好長慶像(画像=大徳寺・聚光院蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

摂津国五百住(大阪府高槻市)の百姓の出である可能性が高い松永久秀は、実務に加えて軍事的な才もあって頭角を現す。長慶の京都占拠後は、訴訟を長慶に取り次ぐほか、家臣に軍役を賦課するための情報管理まで、三好家の万事を取り仕切る存在として、家臣団のなかでも筆頭の地位を得るようになった。

「出自不明」からの大出世

三好政権は将軍義輝を公然と非難し、足利将軍家に頼らず京都を支配した。細川氏をはじめそれまでの実力者が、将軍を必ず擁立していたのにくらべて画期的だった。そんな政権で、たとえば近江の六角氏に、義輝を見限って三好につくように誘いかけるなど、大名間外交を担ったのは松永久秀だった。対幕府、対朝廷の重要案件も久秀が裁いた。

その結果、久秀は破格の出世を遂げていく。永禄2年(1559)12月、三好氏との友好関係を模索する将軍義輝は、まず長慶の嫡男の孫次郎に「義」の偏諱を授与(義長となり、のちに義興と名乗った)。続いて、永禄3年(1560)2月には、義長と久秀がそろって、将軍の直臣格である御供衆に加えられた。

さらに永禄4年(1562)には、義長と久秀がともに従四位下に任ぜられたが、この位階は、久秀の主君の三好長吉や将軍義輝と同格である。そのうえ、長慶と義長の親子ばかりか久秀までが、義輝から桐紋を拝領した。のちに織田信長や豊臣秀吉も、天下人になった証明として拝領した桐紋を、元来は三好家の家臣にすぎない久秀が授けられたのである。

天野忠幸氏はこう書いている。「久秀は朝廷と幕府の双方から、主君と同等の待遇を受けたことが、極めて異例なのである。久秀にみる下剋上の特徴とは、主君をないがしろにしたり、傀儡化したりすることではない。(中略)特筆すべきは、将軍を頂点とする家格秩序が存在し、全国の戦国大名がそれに服している中で、出自がほとんどわからない身分から、自分一代で主家と同格、さらには将軍一門にも准ずる地位を、朝廷からも幕府からも公認されたことなのだ」(『松永久秀と下剋上』平凡社)。