事実上の特権階級を放置してはならない
あくまでも主権者は国民である。マスメディアを事実上の特権階級にしたまま、社会の舵取りを委ねてはならない。行政や世論に干渉できる巨大な権力を持ちながら、専門的な知識や責任どころか選挙すら必要とされず、「一方的な監視」が特権的に許される状況がこれ以上放置され続けるのは危険だ。
エビデンスとファクトを基にした「尊厳の文化」を大前提としたうえで、モンテスキューの時代にはなかった新たな巨大権力を社会制度に組み込み、権力同士が相互に牽制し合うよう促していく必要があるだろう。
つまり、行政や立法、司法側も第四の権力に対し、「対等な権力」と見做して批判や反論を加え、責任を求めていくべきだ。
すると、「そのようなことをすれば、政府などの権力が暴走しかねない」との主張も間違いなく出てくるであろう。しかし、ここでも考えなければならないのは、ゼロサム思考ではなく「量の概念」だ。
すでに第四の権力が暴走して誰にも止められない、時に民意から正当に選ばれた政治家の生殺与奪さえ、冤罪でっち上げや印象操作によって、ある程度コントロールできてしまう現状がある。その弊害も、第四の権力自身による「報道しない自由」や共感格差によって、人々に広く周知されていない。
目下この状況こそ、民主主義にとって差し迫った大きな危機と言える。
そもそも、仮にマスメディアが事実の報道よりも政治への干渉をしたいなら、被選挙権はある。
正当な民主主義手続きで政治家に立候補し、世論からの信任を受けるべきだ。
一般人も反論すべき
②一般人もSNSなどを駆使して反論する
もう一つ重要になってくるのは、一般人も「お客様」にならず、主体的に反論をしていくことだ。
ここで最も大事になるのは「ファクトとエビデンス」、すなわち「人の思惑に左右されない客観的事実(再現性がある科学的知見など)」を尊重すること。特にそれらと「主観的判断による正しさ(人間万事塞翁が馬。予測できない未来に対する政策や在り方などの意見=オピニオン)」を混同させないことが必須となる。
そのうえで、「被害者文化」に抗うのと同様に、偏向したアジェンダセッティングから生じた社会問題(とされるもの)に対し、「社会からの関心と共感」という資源の独占をさせず、彼ら彼女らが主張する「弱者」「被害者」「当事者」「論点」とされるものを無条件に受け容れず、あくまでも「尊厳の文化」をもってフェアに対応する。
相手が「被害者文化」に蝕まれた「加害者」に変容した場合、それをダブスタ(ダブルスタンダード=二重規範)なく指摘・批判する。