デマやフェイクニュースが拡散するのはなぜなのか。福島在住ジャーナリストの林智裕さんは「77.5%の人はフェイクニュースと知らずに騙されているという研究結果もある。『人を騙すための物語』をもっと警戒しなければならない」という――。

※本稿は、林智裕『「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

「やさしさ」こそが「正しさ」とされている

現代社会では、「やさしさ」が強く求められている。

「やさしさ」こそが「正しさ」であるかのように扱われ、「やさしくない」≒「正しくない」物事や対象は徹底的に排除される。そのため多くの人々は「間違えること」を極度に恐れ、もはや社会的に「やさしくない」「正しくない」(とされる)物事や、自らがその立場とレッテルを貼られることに容易には耐えられない。

「やさしさ」は、しばしば物語(ナラティブ)を紡ぐ。理不尽な抑圧と悲劇、善と悪の戦い、弱者の涙、現状を打破する一発逆転の夢──。むしろ、それらの「物語」なしに「やさしさ」は成立しないとさえ言える。

ところが「やさしさ」はいつも気まぐれで、時に近視眼的だ。あるべき善悪の基準、新しい規範、先進的価値観などを「やさしく」示す一方で、それらの客観的な事実、正当性と公平さ、結末のハッピーエンドを必ずしも約束しない。

「やさしい物語」が「情報災害」を引き起こす

たとえ素人の思い付きと変わらぬ浅慮で場当たり的な机上論であったり、コストや弊害を一切無視したり、別の弱者に一方的な負担と犠牲を強いる依怙贔屓やエゴイズムであったり、あるいは根拠なき思い込みや限りなくデマに近い言いがかりや陰謀論──つまり「反動のレトリック」そのものであったとしても、事情にうとい他者からは「一理ある別の選択肢」「今まで見落とされていた新たな視点やリスクが熟考されている」「弱者やマイノリティへの熱心な寄り添い」「アップデートされた価値観」などと受けとめられ、「やさしく」評価や称賛され、善意によって広められたり、誰かを批判する論拠とされることも珍しくない。

ときに内縁的な権威・権力から「表彰」され権威付けされることまである。

それらの「やさしい」物語は、まるで流言や感染症のように人々の判断や行動、ときに倫理観や価値観にまで浸透・干渉し、「情報災害」を引き起こすことがある。

フェイクニュース
写真=iStock.com/Arkadiusz Warguła
「やさしい物語」が「情報災害」を引き起こす(※写真はイメージです)