間違いを「軌道修正」できる余地を残す

そのうえで、必要に応じて間違いをいつでも「軌道修正」できる余地も残しておかなければならない。

これまで示してきたように、「疑いようのない正しさ(Correctness)」だったはずのものが妥当性や正当性を担保せず、何者かが売りつけた主観や独善でしかない「正義(Justice)」にいつの間にか乗っ取られ、変容してしまう例は珍しくない。

当初は「自由や権利の拡大」を訴えていたはずの「社会正義運動」が、他者の表現や存在への攻撃ばかりを繰り返したり、反原発の論拠とするために原発事故被害による不幸の拡大を願ったりなどの本末転倒に陥る。

「じゃあ、ずっと瓦礫の下でお過ごし下さい」

能登半島地震でも、被災地で自分たちの身勝手なヒロイズムを成就させようとする「物語」に対し否定・反論してきた被災者に向かって、《じゃあ、ずっと瓦礫がれきの下でお過ごし下さい》などと吐き捨てる者がいた。

そうした倒錯を止めるためには、個人や組織が自ら誤りを認め、軌道を修正する勇気が求められる。

社会側にも、人の過ちと謝罪を許容できる社会の寛容と冗長性、すなわち「『誤ったら』あるいは『謝ったら』殺す」被害者文化からの脱却、そしてファクトやエビデンスとオピニオンを混同させず、多様な意見を認める土壌が必要になる。

吹き出しを手にする人たち
写真=iStock.com/Rawpixel
多様な意見を認める土壌が必要(※写真はイメージです)