単純明快な「正義」を示す
キャッチー、あるいはセンセーショナルな言葉の多用や情動的な演説など、劇場型スタイルを用いて聴衆の関心を強く引き付け、「やさしく」単純明快な「正義(Justice)」を強烈に示す。
そのオピニオンが唯一の「正しさ(Correctness)」であり「ファクト」であるかのように信じさせる。
そのうえで、目障りな「悪」「敵」「抵抗勢力」をわかりやすく「悪魔化」させてしまう。競合する邪魔な「確からしさ」を人々の判断材料から排除する。
恣意的な結論へと誘導する選択肢だけを人々の視界に残し、「これ以外に正しい道はない」「自分で判断して決めた」かのような錯覚を持たせてしまう。
「嘘と空手形は低コスト、検証や実現は高コスト」
「巨悪に対し、舌鋒鋭い批判を展開する正義の抵抗」「旧態依然とした構造を打破する改革」「見落とされてきた深刻な危険に対する警鐘」であるかのように演出された「物語」や非日常、それらを正当化する派手なパフォーマンスは、一見して地味で退屈に見える堅実な選択肢よりも、遥かに人々を興奮させる。それはさながら、「サーカス」のように。
「嘘と空手形は低コスト、検証や実現は高コスト」という現実も追い打ちをかける。結果、特にエコーチェンバー化が著しい集団内では、それらの「物語」と「正しさ(Correctness)を僭称する正義(Justice)」の共有と既成事実化、狂信的支持がエスカレートしていく。
しかし、これまで数々の歴史上の出来事が示してきたように、人々がこうした「やさしい」「正義(Justice)」の物語に酔って判断力を失い、社会がエコーチェンバー内の独善によって進むべき道を誤れば、多くの不幸が待つだけだ。