「超限定的ライセンス取得ボタン」にしても意味はない
もう一つの代償は、自由の侵食である。
物理的なモノの場合、所有権は通常広い範囲の選択肢を自動的に個人に与えることになる。あなたが本を所有しているとき、繰り返し読んでもいいし、誰かにプレゼントしてもいい。友人に貸しても、文鎮として使っても、気に入った箇所を切り抜いてスクラップブックに貼ってもいい。いちいち誰かの許可を得る必要はない。そうしたかったら、抗議の証として本をシュレッダーにかけたっていいのだ。書店にも出版社にもそれを止めることはできない。
だがオンラインの購入ボタンを押すときには、こうした自由の大半を失う。売り手はあなたのふるまいが気に入らなかったとき、薪を消去することができるし、端末を文字通りレンガにしてしまうことができる。
テクノ封建制度と自由の喪失は、容易に解決できる問題ではない。オンライン・コンテンツに関する限り、アマゾンに購入ボタンの使用を禁じることは可能だろう。代わりに、「超限定的ライセンス取得ボタン」といったボタンにするよう命じる。これなら消費者をだましたことにはならないだろう。
また目立つようにでかでかと「お買い上げいただきましたこの映画は、完全にはお客様の所有物ではございません。作品の貸与は禁じられております」と注意喚起するよう命じることも可能だと考えられる。こうすればすこしは役に立つかもしれないし、すくなくともやってみる価値はあるだろう。
だが情報を消費者に押し付けてもさして効果がないことは、多くの調査で証明されている。私たちは、あまりうれしくない所有権の細部にすぐに慣れてしまう。デジタル経済が欲しいときに即座に多くの楽しみを与えてくれるのだから無理もない。
われわれは「小枝一本」しか与えられない
CDに代わってストリーミング・サービスが優勢になった理由はまさにそこにある。壁際にずらりと宝物のCDが並ぶ光景にノスタルジーを覚える人もいるかもしれないが、多くの人はスポティファイ(Spotify)のクリックひとつで選べる膨大なライブラリと強力なおすすめ機能のほうを好む。
消費者としてもメリットが大きい。薪のライセンスを得るほうが束を持つより安上がりだからだ。企業は消費者がその瞬間に欲しがるものを提供することによって収益を最大化する。そして消費者は、実際以上に所有していると感じて満足する。
未来を予言してみようか。そう遠くない将来に、所有権が完全にそろった束は一握りの企業に集中し、ふつうの人はライセンスやアクセスを許諾する小枝一本だけを与えられるようになるだろう。そうなると、モノやサービスと人間とのつながりはごく希薄にならざるを得まい。そのような世界で生きるとはどういうことだろうか。