大勝ちを狙うと、逆に大負けする

信玄が言う「五分の勝ちでいい」というのは、つまり半分程度の勝ちであれば、人は自分を過信せず、次はもっと頑張ろうという意識になる、というわけです。

勝ちすぎてはいけない、という考え方は、あらゆる時代において通用する普遍的な戒めを含んでいます。

勝ちすぎれば人は有頂天となり、平常心を失い、コツコツ積み上げる努力もしなくなってしまう。それが人間心理というものだ、と信玄は戒めているのです。

五分の勝ちでよい、と信玄が考えるに至ったのは、彼の苦い失敗経験がもとにありました。

1548年(天文17年)の「上田原うえだはらの合戦」で、信玄は敵の信濃の老将・村上義清よしきよの陽動作戦にひっかかってしまい、板垣信方と甘利虎泰という武田軍の飛車・角ともいうべき古参の代表的武将を失ってしまいました。

また、1550年(天文19年)の「砥石といし崩れ」では、またしても村上義清の戦術に翻弄ほんろうされ、砥石城を包囲して落とすはずが、逆に村上軍に包囲されて散々に攻撃を仕掛けられてしまいました。

いずれも勝つことに前のめりになっていたせいで、守りが疎かになり、逆に大きく負けてしまいました。

苦い経験を経て、信玄は勝つときはほどほどでよい、と考えるようになったのです。「四十までは勝つことにこだわり、四十を超えたら負けぬように工夫することだ」ともいっています。年齢的にも、大きく勝つよりも、絶対に負けないための戦術を組むようになりました。

しかし、この話には後日談があります。信玄の思いは、武田家の後を継いだ勝頼には伝わりませんでした。

愛知県新城市の旗祭り
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優秀な父を持つ子供のジレンマ

武田勝頼といえば、長篠・設楽原の戦いで織田信長率いる鉄砲隊に、散々に撃ち破られ、見るも無残な惨敗を喫した武将として記憶している方も少なくないでしょう。

しかし彼はけっして、無能な武将ではありませんでした。

むしろ個人の力量としては、戦国武将の中で五指に入るほどの能力があった、と筆者は思っています。

その勝頼がなぜ失敗したのか、彼は己れの能力を先代である信玄を超えることに使おうとしたからでした。

優秀な父(先代)を持つ子供は皆、このジレンマに陥ります。本当は自分の方が、父より優秀なのだ、と周りに知らしめたい気持ちを抑えられなくなってしまうのです。

これは現代社会でも、よくみられる現象でしょう。

たいていは能力のある、出来物できぶつ(人格・才能に優れた人物)の二代目社長が、己れの能力を過信して、調子づき、よせばいいのに新規事業に手を出して会社を潰してしまったとか、カリスマ上司の跡を継いだ人が上司のやり方を全否定して、仕事が回らなくなったとか、顧客の方ではなく売り手の身内を意識しすぎて動き、結果が出ない、というようなことはよくあることです。