信玄や謙信に媚び、へつらってでも生き残る

信長は目的のためなら、手段を選びません。彼には面子などという概念が、そもそもありませんでした。目的はあくまで勝つこと。面子を立てることではありません。

ですから、生き残るためには平気で逃げることが選択できたのです。恥ずかしい、などとは一切考えませんでした。

世間がどのように己れを見ようが、最終的に勝てば世間の見る目も変わります。

生き抜いて再戦するためには、必要であればいくらでも逃げますし、敵に媚びを売ることも決して厭いません。

信長は織田包囲網を15代将軍・足利義昭に仕掛けられて、“はりつけ”になったように、身動きの取れない状況に追いつめられたことがありました。

そのようなとき信長は、敵の将軍義昭であろうが、ときの第百六代・正親町おおぎまち天皇であろうが、泣きついて和睦の名分を得て、「死地」をくぐり抜けています。

彼には火のように攻めるイメージしかない、と思い込んでいる人には意外な史実かと思いますが、むしろ信長の強さはここにあったような気がします。

例えば信長は、武田信玄に手紙を送り、「あなたのことをリスペクト(尊敬)しています」とひたすら媚び、へつらったことがありました。

このとき信長は、南蛮渡来の珍しい品々を恭しく贈呈しました。信玄が治める甲斐の国は、四方を山に囲まれているため、あまり珍奇な品物は流通していませんでした。

武田の家臣はその豪華さに、信長は心底、わが主君を敬慕している、とみなしました。

しかし信玄は、これは一時のハッタリ、時間稼ぎだと信長の心を読みました。

「その証拠に、贈り物を入れて来た器をよく見てみろ、心からの敬慕がないものは、器にまで気を配らないものだ。きっと器の漆塗りの層は薄いはずだ」と信玄は言いました。

なるほど、と家臣が小刀で漆を削ったところ、なんと十幾層に漆は塗られていました。

さしもの信玄もこのときは、もしかしたら信長は、わしのことを心から尊敬しているのかもしれぬ、と思ったと伝えられています。

この配慮こそが、信長の真骨頂でした。

さらに返礼の武田家の使者が来ると、信長は自ら鵜飼うかいをして獲った鮎を、使者にふるまったといいます。完璧といっていいおもてなしといえます。

一方で信長は、上杉謙信にはお気に入りの絵師・狩野永徳えいとくに描かせた『洛中洛外図屏風らくちゅうらくがいずびょうぶ』を贈り、屏風の真ん中の位置に駕籠に載っている謙信を描かせ、「あなたがこのように上洛するときは、私自ら、馬のくつわを取って、京都をご案内いたします」と伝えているのでした。

ポルトガルの宣教師が安土城を訪れたときも、信長が自らもてなしの膳を運んできたといいます。

「急に来られたから、人手不足でな――」と、笑いながらもてなしました。

負けずに生き残るためには、何でもやるという信長の精神を、私たちは学ぶべきかもしれません。

攻撃するのをやめて! と女性に言わせた

不敗戦術その四
力添えを頼む

自分一人では、どうあがいても勝てない――。

そんなときは人の力を借りるのも手でしょう。ポイントは早めに力添えを頼み、敵の機先を制することです。

それをうまくやったのが、幕末の幕臣・勝海舟でした。

機先を制すことを、剣術の世界では「先の先をとる」といいますが、幼い頃から剣術に勤しみ、直心影流じきしんかげりゅうの免許皆伝となっていた勝海舟には、この考え方が身に沁みついていたのかもしれません。

彼は敵の多い人でした。本人は幕府のことを考えて動いているつもりなのですが、同じ幕臣たちからは“薩長の犬”と罵られ、嫌われていました。

勝の屋敷には、毎日のように刺客が訪れましたが、勝は自ら応対せず、華奢な女性に対応を任せていました。

「申し訳ございませんが、勝は不在でございます」

丁寧に頭を下げられると、目を血走らせてやってきた男たちは出鼻をくじかれ、なにも言えずにそそくさと帰っていったそうです。

うまく人を使って相手の機先を制し、刀を抜かずに勝つのが、勝海舟流のサバイバル術だったのです。

重要な局面でも、勝の戦術は効果を発揮しました。

1868年(慶応4年)、長く続いた徳川幕藩体制がついに瓦解がかいし、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破り、江戸に押し寄せてきたときのことです。

新政府軍は、江戸城を武力で落とすつもりでした。それにより、時代が変わったことを内外に知らしめようとしたのです。

しかし、そんなことをされては、江戸の人々が大変なことになってしまいます。

その流れを阻止するため、勝海舟は13代将軍・徳川家定の御台所だった天璋院(篤姫)から、西郷隆盛へ手紙を出してもらっています。

アンティークなメモ帳
写真=iStock.com/BrAt_PiKaChU
※写真はイメージです

もともと、島津家の姫君だった篤姫が徳川家に輿入れする際に、養父でもあった藩主・島津斉彬に嫁入り道具の手配を命じられたのが西郷でした。

そんな相手に、「私のいる江戸を攻撃するのをやめてほしい」と牽制させたのです。

勝は、14代将軍・徳川家茂の正室だった皇女・和宮からも、同様の手紙を出させています。相手は和宮の縁戚で堂上どうじょう公家の橋本実梁でした。彼は東海道鎮撫総督、ついで同先鋒総督兼鎮撫使に補せられて江戸へ向かった人物です。

西郷の闘志も、少なからず揺らいだのではないでしょうか。