「ブギの女王」となった笠置シヅ子は、米兵相手に体を売る「パンパン」から熱狂的に支持された。笠置の評伝を書いた柏耕一さんは「笠置の後援会長は現職の東京大学総長。有名画家や作家や大女優も笠置のファンだと公言する中、『夜の女』たちは異色のファンだったが、笠置は、自分の芸を認め応援してくれる人なら損得抜きで長くつきあった」という――。

※本稿は、柏耕一『笠置シヅ子 信念の人生』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。

現役の東大総長で知識人の南原繁が、笠置の後援会長だった

笠置シヅ子の後援会長は現職の東大総長、南原繁なんばらしげるである。笠置の実父と彼が、郷里香川県の中学の同級生という縁からだった。

それ以前にも南原は、人気歌手の笠置が同級生の娘ということを知って、総長室に招くなどして親交を深めていた。

笠置シヅ子の後援会長だった南原繁
笠置シヅ子の後援会長だった南原繁(写真=1953年『現代随想全集 第8』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

なにしろ南原といえば昭和22年(1947)5月に、アメリカとの単独講和を主張した吉田茂首相に対して、中国やソ連など全交戦国との全面講和を主張して、吉田から「曲学阿世きょくがくあせい」と批判された、当時、日本を代表する進歩的知識人である。

笠置のファンはじつに幅広く、作家でいえば三島由紀夫、田村泰次郎たいじろう、吉川英治。画家なら梅原龍三郎りゅうさぶろう。女優では田中絹代きぬよ、初代・水谷八重子、山田五十鈴いすずと、枚挙にいとまがない。

なかでも異色なのは、いわゆる“夜の女”といわれる人たちだった。日劇で公演があれば彼女たちは大挙して押しかけ、花束を渡すなどして熱心に笠置を応援するのである。

戦後すぐのことであるから、夜の女たちの大半は戦争未亡人など、経済的に困窮をきわめた女性たちだった。

生後間もない乳呑児ちのみごをかかえながら、明るく奔放なステージを繰りひろげる笠置に、彼女たちはどんな共感を寄せたのだろうか。苦しい現実をつかの間忘れさせてくれるスターへの憧れだろうか、それとも自分たちの未来への希望だろうか。

娼婦たちと知り合って10年後も「ずっとつき合いしています」

昭和25年(1950)6月6日から1週間の日劇「ブギ海を渡る」の最終公演、12日の千秋楽は日劇始まって以来の超満員で、入りきれない観客があきらめきれずに、劇場の外を取り巻いたという。

そんな日もおねえさんたちは、1階の最前列かぶりつき席に200~300人が陣取って嬌声をあげたというから、彼女たちの熱狂ぶりが知れる。

笠置はそれからおよそ10年後、週刊誌『娯楽よみうり』の連載対談「おしゃべり道中」の中で、ジャーナリスト大宅壮一おおやそういちから「彼女たち」との交流を聞かれて、こう答えている。

「まだつき合いしています。誕生日にはあねご連中がちゃんときます。大阪のあねごが一人胸が少し悪くて、徹底的に治すというので、東京中野の国立病院に入っています。先だってお見舞いにも行ってきました。いろんなところでずっとつき合いしています」

笠置の夜の女たちとの交流は、コメディアンの古川ロッパの日記にも出てきており裏付けられる。それだけ笠置の情が深いのだろうが、それだけではあるまい。

笠置は、自分の芸を認め応援してくれる人なら損得抜きなのだ。そして縁が一度できれば、大事にする性分である。