戦後「東京ブギウギ」などのヒット曲で不動の地位を築いた笠置シヅ子。作家の柏耕一さんは「美空ひばりは子どもの頃、笠置の持ち歌を歌って天才歌手だと注目されたが、美空が劇場やハワイ公演で歌うときは、笠置と作曲家の服部良一から楽曲を使うなと差し止められた。果たしてそれは笠置の嫌がらせだったのか。真相は違うようだ」という――。

※本稿は、柏耕一『笠置シヅ子 信念の人生』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。

『悲しき口笛』の美空ひばり(11歳)、1949年
『悲しき口笛』の美空ひばり(11歳)、1949年(写真=家城巳代治監督、松竹製作/PD-Japan-film/Wikimedia Commons

笠置より23歳下、美空ひばりは11歳で笠置に出会った

のちに笠置シヅ子は、美空ひばりとの確執を世間から面白おかしく邪推されるのだが、そもそも二人には、どのような出会いがあったのだろうか。

ひばりは昭和23年(1948)5月の小唄勝太郎公演に出演している。これは横浜国際劇場の一周年記念公演でもあり、笠置の「セコハン娘」を歌って好評を博した。ひばりはその後、横浜国際劇場の準専属になる。

美空ひばりは当時、11歳だった。同年10月、人気絶頂の笠置が横浜国際劇劇場に出演し、ひばりが前座を務めることになった。二人はここで初めて顔を合わせることになった。

昭和32年(1957)刊のひばり20歳目前での初めての自伝『虹の唄』には、その時のひばりの気持ちが次のように綴られている。

「ある日、笠置シヅ子先生がお出になることになりました。私が一番尊敬している先生です。うれしさに胸が一ぱい。笠置先生はいろいろ親切に面倒を見て下さいましたし、私のような子どもと一緒に写真を撮って下さいました」

『虹の唄』には二人が並んで写る写真が掲載されている。この文章には、ひばりの笠置に対する悪感情など微塵もない。

ひばりは笠置のブギの持ち歌を歌って天才歌手と騒がれた

しかし、それから14年後に刊行の『ひばり自伝』では、笠置との初めての共演の話題はすっぽり抜け落ちている。笠置の持ち歌を歌って芸能界へのチャンスをつかんだひばりの経歴からすると不自然ではある。

服部良一は、ひばりのことは当然よく知っている。昭和24年(1949)にひばりが日劇に出演した際には、母の喜美枝からこんな挨拶をされている。

「この子は先生の曲が好きで、笠置さんの舞台は欠かさず見ています。どうぞ、よろしくお願いします」

服部は喜美枝の挨拶を受けながら、ひばりのことを「横で、ピョコンと頭だけを下げてニャッと笑った少女に、ぼくは不敵な微笑を感じた」と感想を述べている。

ひばりはお客には人気があって、「豆ブギ」とか「小型笠置」とか呼ばれている。

ひばりの11歳当時の「東京ブギウギ」を聴くと、低音と高音のメリハリのある艶やかで巧みな歌唱に驚かされる。とても子どもの歌とは思えない。服部も舌を巻いたという。

天才の片鱗ではなく、すでに天才そのものである。

いっぽう、笠置はひばりに果たして、どんな感情を抱いていたのだろうか。知られた言葉としては、服部に語った言葉ひとつしかない。

「センセー、子どもと動物には勝てまへんなあ」