笠置シヅ子と吉本興業創業者の吉本せいは、戦前戦後の芸能界を実力だけで生き抜いた女性であり、ドラマ「ブギウギ」(NHK)で描かれたように「おんなじ男をとことん愛した仲」でもあった。吉本せいの評伝などを調べたライターの田幸和歌子さんは「吉本興業が大阪のお笑い界で強大な力を持っていたことでもわかるように、せいは嫉妬心と執着の強い女性だったようだ」という――。

朝ドラでは東京で出産したスズ子を愛助の母が訪ねたが…

村山興業の御曹司・愛助(水上恒司)の早すぎる死と、スズ子(趣里)の孤独な出産が描かれた朝ドラ「ブギウギ」。第19週では、愛助とスズ子の子・愛子が生まれてから3カ月、スズ子が子育てに忙しい日々を過ごしている様が展開した。

吉本せい
吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

そんな折、愛助の母であり村山興業社長のトミ(小雪)がスズ子を訪ねてくる。生まれてきた愛子を抱いて「おばあちゃんやで」と言ったトミは、愛子を引き取りたいと申し出るが、スズ子はそれをきっぱりと断る。しかし、本当に困ったときには助けてほしいと言うスズ子に、トミは当然だと言い、実は自分もスズ子の歌のファンだと打ち明けるのだった。

スズ子はそんなトミの言葉にも背中を押され、再び歌うことを決意。作曲家の羽鳥善一(草彅剛)に新曲を作ってほしいとお願いする。そこから「東京ブギウギ」が、そして「ブギの女王・笠置シヅ子」がついに誕生するのだが、この誕生の経緯も史実とはずいぶん印象が異なる。

史実では笠置シヅ子とトミのモデルとなった吉本興業創業者・吉本せいが初めて対面したのは、愛助のモデル・吉本穎右えいすけ(エイスケ)の死後で、笠置の出産後だったことは前回記した通り。

笠置が吉本興業から受け取ったのは見舞い金1万円

笠置シヅ子の自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)によると、笠置の産後、笠置のもとに、せいの実弟である吉本の林弘高常務(「ブギウギ」の坂口のモデル)がお祝いの品を持って来て、本家からといって見舞い金1万円が差し出された。

ちなみに、スズ子が戦後(1945年)に購入した宝くじの1等当選金は、10万円。宝くじ公式サイト「宝くじのあゆみ」によると、1945年の「厚生省指導による組み立て住宅(6坪余)1500円」「白米1升(ヤミ値)70円」というから、笠置が出産した1947年当時の貨幣価値を考えると、今でも多くの所属芸人が「ケチ」とネタにする吉本興業にしては、そこそこ奮発した印象もある。とはいえ、吉本が笠置に渡した金はそれがすべて。亡き息子の子を一人で産み育てる女性に対して渡した金額だと思うと、やはりケチな印象は否めない。

また、ドラマと違い、産後、あいさつに行ったのは笠置の方から。実際の吉本せいは「ブギウギ」のトミとも、吉本せいをモデルにした朝ドラ「わろてんか」ともだいぶ印象が異なり、「御主人に似てデップリと肥った方でしたが胸部に持病があって」(笠置自伝より)という事情もあって、笠置の方から産後3カ月のときに娘を連れて兵庫県の「甲子園近く」にあった吉本家を訪ねたのだ。