施設に入れる安心感は誰のためか

身体がまったく動かなくなって医療的処置が必要だったら、施設へ入るのも仕方ないかもしれませんが、実際に身体が動かず医療的処置が必要なALS(筋萎縮性側索硬化症)の方が、訪問医療、訪問介護、訪問ヘルパーの支援の下に自宅で過ごしています。

動かせるのがまばたきだけになってもパソコンを操作しています。そういうことを考えると、施設に入るのも簡単に決断しないで、じっくり考えてほしいと思います。

有名な小児科医で文筆家である松田道雄さんが『日常を愛する』(平凡社)という著書で次のように書いていました。

自分の家から離れられないというのは、自分の日常から別れたくないからである。部屋、台所、戸棚、押し入れ、ふとん、食器、衣類、庭、すべてが、自分の美しかった日常の舞台であり、小道具であったのだ。そのひとつひとつが、柱のきず、壁のしみまで孤独の生を安定させるために必要だった。

どんなに狭くて汚くても我が家は我が家です。

高齢になると、家事も完ぺきにはできません。洗い物がたまっていたり、ものがきちんと片づけられていなかったり、シーツが汚れたりしています。

たまに来る子どもや福祉の人は顔をしかめ、「衛生的ではない」と言います。ひとりではもう家事は無理だから施設に入りなさいとすすめる人のほうが多いでしょう。

施設に入れば、清潔に暮らせて、食べることに心配はいりません。

施設に入所すると、「これで安心でしょう」と支援者は去っていきます。子どもはめったに来ない、行政の保健師さんやケアマネジャーさんが訪問してくれることもない。毎日同じスタッフがお世話をしてくれて、何もしなくてもよい。

「これで安心だわ」と言うときの安心は、高齢者の安心ではなく、まわりの安心なのでしょう。ひとり暮らしで孤独死をしてもらっては困る。子も行政も責められるからです。まずは施設に入れれば安心なのです。

車いすの女性
写真=iStock.com/byryo
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日課の朝一杯の濃いコーヒーも飲めない

私は孤独死が不幸だとも限らないと思います。自分の城で死ぬのは本望と思う方は多いでしょう。孤独死を嫌がるのは、まわりの人です。迷惑がかかるからです。高齢者も迷惑をかけるのをおそれて、子どもや支援者たちの言う通りにしてしまいます。

でも、高齢者本人の自由は確実に奪われます。

朝は、濃いコーヒーを一杯飲みたいという人がいました。自分でのろのろとゆっくり動き、豆を機械で挽きドリップをしてコーヒーをれて、朝ドラを見て家事をしてから10時半に朝昼兼用のご飯を食べます。夕食は5時に好きなものを食べ、寝る前にタブレットで映画や動画を見て寝ます。

そんな方が、大腿骨頸部だいたいこつけいぶを骨折して入院したあとに施設に入れられてしまいました。リハビリのおかげで、押し車を使って歩けるようにはなったのですが、気持ちが落ち込んでいたために、まわりがすすめる施設入所を承諾してしまったのです。

しかし、施設には朝のコーヒーはありませんでした。朝、昼、晩と同じような食事を食べます。口に合わなくて残すと、「全部食べなさい」と食べさせようとします。インスタントコーヒーは許可してもらい、部屋で飲めるようになりましたが、いちいち施設の許可がいります。