そのタイミングで、京都の伊勢丹に知り合いがいる友人を通して、作家のグループ展に参加することになった。弟子時代に造った仏像と新作のだるまを展示した宮本さんは、ほかにすることもないので2週間の会期中、毎日会場に足を運んでお客さんの呼び込みをした。
そこにたまたまお坊さんが通りかかり、「うちのお寺の仏さまの右指が取れてるから、ちょっと直しに来てくれへんか」と頼まれたり、伊勢丹の人から「三越でも展示会があるから、そこで1回やってみいひんか」と声をかけられたりして、本当に少しずつ小さな仕事が決まっていった。
火事で燃えたケヤキの大黒柱から2体の仏像を彫った
思い出深いのは、最初に手掛けた仏像だ。だるまの販売を始めたのと同時期に、師匠と仲の良かったお坊さんから連絡があった。
話を聞くと、友人のお寺の檀家さんの自宅が火事になってしまい、そのお見舞いとして、焼け落ちた廃材から仏像を造れないかと相談を受けたのでやってみないか、というものだった。仕事がなくて困っているという宮本さんの事情を知っていたお坊さんの、心遣いである。
ふたりで現場に行くと、100年以上前に建てられた家にはよく燃える杉の木が多く使われていて、ほとんどが芯まで燃えていた。宮本さんは「これは無理ですね……」と諦めかけていたが、お坊さんは粘り強く現場を探り、泥だらけになっていたケヤキの大黒柱を見つけ出した。
大黒柱を切ってみると、表皮から1センチほど炭化していたものの、内部は瑞々しさを保っていた。「これならいける!」と判断した宮本さんは、大黒柱を自宅に持ち帰り、1年かけて二体の仏像を彫った。
「自分の仏像が仕事になることの高揚感があって、いいものを造ろうと一心不乱でした。普段はシャープに彫るんですけど、この時はどっしり筋肉質のお釈迦さまにしたんですよ。火災で燃え残った木を使ったので、これからご家族をいろいろな災害から守ってくれるようにと」
フリーターの宮本さんを仏師に紹介した兄も、再び手を差し伸べた。ウェブ制作会社を立ち上げていたこともあり、格安で「宮本工藝」のホームページを作ってくれたのだ。そこに一体目の仏像をアップし、SNSで告知すると、そこからも仕事が舞い込んでくるようになった。
また、実家の法衣仏具店を継ぐことになった小学校からの幼馴染が、営業役を担ってくれるようになった。工房で集中して製作する時間が必要な宮本さんにとっては、渡りに船。こうして、家族、友人、知人からのサポートを得ながら、宮本さんは仏師としてメシが食えるようになっていった。