京都では「ぶぶ漬けでもどうどす」は「早く帰れ」の意味で、嫌みったらしい表現だといわれることがある。自治医科大学准教授の小野純一さんは「この表現は決して嫌みではない。京都に限らず、日本語には他にも似たような表現がある」という――。

※本稿は、小野純一『僕たちは言葉について何も知らない 孤独、誤解、もどかしさの言語学』(NewsPicksパブリッシング)の一部を再編集したものです。

京都の茶漬けと漬物
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京都人の「ぶぶ漬けでもどうどす?」

京都で「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどす?」と言われたら、「はよ帰れ」と理解しなければいけないという話があります。日本、特に京都ではこのような「空気を読む」とか「行間を読む」ことが重要だとされます。

このように文脈依存度が高い文化をハイコンテクストの文化といいます。共有される常識や文脈に依存する割合が高いコミュニケーションを普段から行う文化のことです。京都はこの文化を高度に発展させたコミュニケーションの場となっているとされます。

このことは、日常会話では言語が情報伝達よりも〈情動への効果〉という機能に重点を置いている、という問題と直接関わります。

京都を特徴づけるこの表現そのものが、実際に京都でいま使われるかは別にしても、このことが一般に知られている点が重要です。それは、京都では、言いづらいことを遠回しに言う〈センシティブ〉な言語行為が実践されることをよく示しているからです。

京都の「いけず文化」とか「高度な嫌み」と言われる表現は、摩擦を避けるための言語行為だといえます。しかし、〈センシティブ〉な言語行為は京都に限定されません。