「秋葉原通り魔事件の実行犯」の人生観

自暴自棄型の犯罪と、自分の人生への無力感、そしてそれに基づく無責任さの関係は、秋葉原通り魔事件の加藤のうちにも見出すことができます。

事件の背景には加藤の極端な価値観があり、そしてその価値観は母親からの影響によって形成されたものでした。その自己認識が、彼にとって何を意味していたのかを考えるために、彼が獄中で執筆した著書『』における証言を見てみましょう。そこでは、何かにつけて「人のせい」にするという自らの性格について、次のように述べられています。

何故このようなものの考え方になったのかと考えて自分の人生をさかのぼってみましたが、最初からそうだった、としか考えられません。このような考え方に変わったきっかけになる出来事等は無く、こうして自己分析するまでは、この考え方は当たり前のこととして、何の疑問も持っていませんでした。

とすると、これは幼少の頃の親、特に母親から受けた養育の結果だということになりそうですが、このように書くと、人のせいにしている、と批判されるのでしょう。

つまり、自らの母親のもとに生まれてきた、ということが、彼にとって自らの性格を決定する唯一の出来事だったのです。だからこそ彼は、自分がなんでも「人のせい」にするということは、自分のせいではないと訴えます。

他に選択肢が無い私が母親のコピーになっていくのは、私の責任ではありません。確かに、その一択を拒否する手段はあります。母親を殺すか、私が自殺すればいいことです。

なぜ「死刑になる」とわかっていて、犯行に及んだのか

加藤は、自分が「母親のコピー」になることは、自分の責任ではないと考えています。当然のことながら、仮に彼が言う母親からの教育がすべて事実であったとしても、それによって彼の刑事責任が相殺されることはありません。そのことは彼も理解していたはずです。

そもそも彼は、犯した罪によって自分が死刑になることを予見していました。それでも犯行を思いとどまることができなかったのは、なぜなのでしょうか。その背景には、上記の無責任さに基づく、自分自身への関心の希薄さが見え隠れしています。

私は、自分のことはどうでもいい人です。死にたいわけでも死刑になりたいわけでもない、と書きましたが、死にたくないわけでも死刑になりたくないわけでもありません。どうでもいい、といっても、どうなってもいい、とやぶれかぶれなのではなく、単純に、自分で自分の将来に興味が無いということです。

なんでも「人のせい」にする彼は、紛れもなく無責任です。しかし、そのように無責任であること自体に、彼は責任を負いません。もしかしたら、無責任である自分がどうなろうが、その責任は自分にはない、と考えていたのかも知れません。無責任さは、自分自身への関心の希薄さと表裏をなしているのです。

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