待機児童問題を批判した「保育園落ちた日本死ね!!!」という言葉は、なぜ流行語となったのか。関西外国語大学の戸谷洋志准教授は「日本社会から『自分の声を聴いてくれる存在』が消失し、不満が直接国家に向くようになった。孤独な現代人は『私の話を聴きたいと思っている人』を求めている」という――。

※本稿は、戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

子供が騒ぐリビングで仕事をする女性
写真=iStock.com/kohei_hara
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保育園に落ちた親の叫びは、国会にも届いた

誰かが自分の声を聴いてくれることへの信頼――それは、私たちの社会からどんどん失われているように思えます。

2016年には、そのことを印象づける出来事が起こりました。保育園の抽選に落ちた親が、「保育園落ちた日本死ね!!!」というタイトルで、次のようなブログを投稿したのです。以下、その一部を抜粋して紹介します。

何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が少子化だよクソ。
子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。

ブログは、待機児童問題を批判する叫びとして世間から大きな注目を集め、国会で取り上げられるだけでなく、同年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンにランクインしました。

家庭と国家しか存在しない世界線に生きている

ここで注目したいのは、保育園に落ちた絶望が、直接的に国家へ向かっている、ということです。

投稿者が直面している苦悩は、仕事と子育てを両立することができなくなり、自分の思い描いていた人生を歩めなくなったことでしょう。そして、その問題を解決できるのは国だけだった、と、投稿者は考えているのです。だからこそ、国に対して怒りの矛先が向けられています。

投稿者の生きている世界には、あたかも、家庭と国家しか存在しないかのようです。国家が助けてくれなかったら、誰も助けてくれない――そうした環境に、この投稿者は置かれているのです。