無差別殺人の実行犯は、なぜ「死刑になる」とわかっていても犯行に及ぶのか。関西外国語大学の戸谷洋志准教授は「彼らは自分の人生が他人によって決められていると感じている。そのため、自分の人生に関心を持つことができなくなっている」という――。

※本稿は、戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

壁に映ったナイフを持つ人の影
写真=iStock.com/Andrii Atanov
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自分の人生を「自分のもの」と思えない人たち

自分の人生を自分の人生として引き受けられない。それは、言い換えるなら、自分の人生が他者に決定されたものとして理解される、ということです。そしてここから二つの帰結が導き出されます。

一つは、自分の人生に「功績」を感じられなくなる、ということです。

たとえば「私」が厳しい受験戦争に勝ち抜き、難関校に合格したとしましょう。多くの場合、「私」はそれを自分の功績だと思いたくなります。そのとき「私」は、自分の力で、自分の意志によって努力し、その結果として大学に合格したと考えようとするからです。言い換えるなら、「私」の強い意志がなければ、大学に合格できなかっただろう、と見なすことを意味します。

ところが、「私」が自分の人生を引き受けられないとき、大学に合格できたのは「私」の意志によるものではなく、「私」が置かれていた環境によるものだと理解されます。すなわち、両親が教育熱心であり、進学校や予備校に通わせたり、参考書をいくらでも買ったりできるような経済力を持っていたからこそ、「私」は大学に合格できた――そのように考えることになります。

恵まれた環境のパワーに比べれば、「私」の意志が果たした役割など、ほんのささやかなものでしかありません。つまり、大学に合格できたのは「私」の功績などではなく、両親の手柄になってしまうのです。