子どもは親の教育に対して無力である

そして、功績と同様に無効化される概念が、「責任」に他なりません。

たとえば、親から「テストのときに分からないことがあったらカンニングしなさい」と教えられて育った子どもを考えてみましょう。その親は、子どもがカンニングせずにテストで悪い点数を取りでもしたら、「なんでカンニングしなかったんだ」と言って、子どもを殴るとします。

戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)
戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)

この子どもは、親の言うことを信じ、テストのときに分からないことがあったら、何の悪気もなくカンニングをするようになるでしょう。では、その責任はその子どもにあるのでしょうか。おそらくそうはならないはずです。その子どもがカンニングした責任は、その子どもをそのように育てた親にあるに違いありません。このとき子どもは、親の教育に対して無力なのであり、自分の行為に対して責任を持つことができないのです。

功績と責任は、ともに、人間の自由な意志を前提にしています。反対に、自由な意志が否定されるとき、功績も責任も成り立たなくなってしまうのです。そして経済格差や虐待の問題は、ある種の無力感を催させることで、人間から自分の人生を自分の人生として引き受ける可能性を奪ってしまいます。

「無敵の人」は自分の人生を外部から静観している

「無敵の人」が起こす自暴自棄な犯罪には、そうした、自分の人生に対する無力感に基づく、特有の無責任さが伴っているように思えます。自分で恐ろしい犯行を起こしながら、どこかで、自分がその犯行を起こしている責任は、そうせざるをえない状況へと自分を追い込んだ環境にあるのであって、自分のせいではない、という感覚です。

そうした無責任さに飲み込まれるとき、人間は、いわばすでにエンディングが決定している映画を眺めるように、自分の行動を外部から静観するかのような感覚に陥るのではないでしょうか。そしてそのとき、これは他ならぬ自分の人生なのだから、大切にしなければならない、尊重しなければならないという気持ちも、湧き起こらなくなるのではないでしょうか。

幽体離脱をして、寝ている自分を見ている人
写真=iStock.com/sezer66
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