栄光学園時代は純朴で誠実な男

「両親からもそうですが、やっぱり栄光学園じゃないですか。イエズス会式の文武両道のスパルタ教育を受けました」

ロシアでのビジネスで示したチャレンジ精神、大阪での粘り強さ、真摯さ。こうした資質をどこで育てられたのか、という質問に対しての飯島の回答だった。

栄光学園。終戦直後の1947年に神奈川県横須賀市、旧海軍工廠跡地に設立された中高一貫教育の学校法人である。米軍の要請を受けたイエズス会の働きかけにより設立された。飯島が中学2年生時に横須賀市から、神奈川県下の鎌倉市に移転。今や全国的に有名な進学校で、財界、官界を中心にキラ星のごとく有能な人材を輩出している。プライベートに飯島を知る同校OBにキヤノンマーケティングジャパン会長の村瀬治男がいる。

村瀬によれば、時代の移り代わりとともに栄光学園の教育も変化しているが、1学年180人という人数の少なさがプライベートスクールのような伝統と人間関係の濃密さを生んでいるという。

飯島と6年間過ごした友人たちの多くは、どちらかといえば無口な少年だった飯島を思い出すという。いかにも才気走った少年というふうではなかった飯島。多くの同級生たちにとっての彼は、純朴で誠実な男だった。

経営企画に在籍経験はなく、海外赴任は研修員の1回を含めてもロンドンだけ。三井物産の11代目社長に駆け上がった飯島の経歴を見ても、そこには、華麗な数々の海外赴任や、経営の王道たる部署を通った形跡はない。ひたすら現場でたたき上げ、数々の現場を踏んできた男の経歴にほかならない。

幹部になればなるほど、分厚い資料を読むのを厭うようになる傾向がある。三井物産では、伝統ではないが、幹部向けの資料はA3用紙1枚の提出が一般化されていた。そんな中、「おい、裏の資料もあるだろう」と要求するのが、飯島だ。

あるとき、飯島と同じ飛行機に乗った物産マンは、飯島が食事のときも資料から目を離さずにいる光景を目撃する。飯島は、

「サシで会うときに資料を繰っているようじゃもう負けているんですよ。交渉は真剣勝負ですから」

という。インターネットの普及などで情報格差はなくなり、ビジネス環境は均一化した。そうなれば、商社マンの勝負は、ヒューマン・インテリジェンスの差にならざるをえない。その個人でしか取れない情報を引き出す力、人間力がより問われる。こうした時代に、現場を重んじ、「信頼」の2文字を体現する飯島が、“時代の要請”として社長となり、陣頭指揮をとる。飯島は、どのような差配をし続けるのか。

人の三井、日本最古の総合商社の今後が、試されている。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(的野弘路=撮影)
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