ビジネス一つ一つを用意周到に組み立てる

かつて製鋼原料部合金鉄第一グループに所属していた高荷英巴(現経営企画部イノベーション推進室室長)は、01年の年の暮れ、人気のないオフィスでパソコンに向かっていた。

取引先の経営不振が発覚したため、内々にデフォルトに備え、債権保全の手立てをまとめていた。しかも年明け早々、ニューヨークへ赴任するため、社内稟議を通すためにも一刻も早く書類をまとめねばならなかった。孤独な作業に、当時の次長が付き合い、薄暗いオフィスに残っていた。飯島である。

不明な点があるたびにソファに横になっていた飯島に尋ね、飯島はそれに答えると再びソファに横になる。こんなやり取りが、明け方まで続いた。“栄光の製鋼原料”。稼ぎ頭だった製鋼原料部も、ビジネスシステムが陳腐化し、赤字を出す部に変わっていた。

飯島が次長から部長に昇進したとき、部下だった木下雅之(現専務執行役員)は、経営企画部へ、高荷はニューヨークに異動していた。飯島部長のもとには、91年入社の福田哲也(現経営企画室次長)、92年入社の後藤雅人(現食品事業業務部戦略企画室次長)などがいた。

部長になったとはいえ、飯島の顔色は冴えず、部屋の中央にある部長席に座るその肩は沈んでいた。赤字続きの製鋼原料部のため、スクラップは子会社へ、合金鉄は製品部へ改編され、組織的にも揺れていた。当時、飯島の上司だった金属資源本部長、多田博(後の副社長)から飯島に叱咤の電話がかかってくるたびに、飯島はがっくりと肩を落としていた。

後藤は、こんな光景を目撃する。

「多田さん、非常に不愉快だ」

こういって飯島がガチャンと電話を切ってしまったのだ。後藤が、

「多田さんでしょ? 大丈夫ですか」

と聞くと、飯島は、

「いいんだよ。不愉快なものは不愉快なんだ」

さらに、後藤が笑いながら

「いいですね。上司に対しては不愉快だといえばいいんですね。学びました」

と、茶化すと、

「ばかやろう」と飯島から返ってきて、話題は終わった。

多田の名誉のためにいうが、鉄鉱石出身ながら、製鋼原料の飯島を引き上げ、育てた恩人の1人が多田だ。

その豪放な風貌とは裏腹に、飯島はビジネス一つ一つを用意周到に組み立てる性格だ。また相手先の倒産など、リスクに対する感覚も、鋭敏だ。だから相手先のわずかな兆候を見逃さず、2年ほど前から相手先に気づかせることなく債権保全に入ることもあった。10億単位の債権を持った、ある取引先の倒産に際して、新聞などが「最大債権者 三井物産」と書きたてた。だが、実際は、かなり前から債権保全をして、損失はゼロだった。

飯島は、「現場で起こっていること」を非常に気にする。そして飯島自身が大阪で叩き込まれたように、部下たちには「とにかく現場に足を運べ」といい続ける。あるとき、福田は若手が、飯島から懇々と説諭されている現場を目撃する。

100%のL/C(信用状)で買った案件がフタを開けてみると、ボロ石のようなものをつかまされたことがあった。飯島はその若手がどう処理するかをじっと見ていた。若手社員が「書類上不備はない。だから、もうこれ以上は、無理です」といったのを聞くや、一対一となって話し始めた。

「おまえ、結婚したよな。例えば、タンス買ったらボロタンスがきたとする。それでも、タンスはタンスだ。どうする?」

「クレームをつける」といった若手に対して、飯島は、「そうだろ。だったら、今回だって一緒だ。行ってこい」。

書類だけで諦め、行動して事態を打開しようとしないことを飯島は嫌う。それは飯島にとって、人間に対しても、仕事に対しても不誠実なものなのだ。