商社は、貿易から投資へとスタンスを変化させて、その姿を大きく変えている。コモディティ争奪戦に身を乗り出し、プレーヤーとして存在感を高めているのだ。飯島彰己社長は「人の三井」をどう変貌させようとしているのか――最前線に迫った。

大阪では、過酷で怒られながらの日々

果敢に新たなフロンティアを目指す飯島の原点は、どこにあるのか。それは、海外雄飛を夢見て入社したにもかかわらず、初任地として配属された大阪だ。

三井物産 代表取締役社長
飯島彰己氏

「大阪が物産マンとしての仕事の原点」

飯島はいい切る。飯島は入社後、審査部、鉄鋼原料部(のちの製鋼原料部)の部員として4年あまりを大阪で過ごす。しかし、飯島にとっての大阪の地は過酷で、怒鳴られながら日々仕事を仕込まれた場所だった。

審査部は書類だけを見て、審査をする場所ではない。審査部に配属された飯島は、営業とともに客のところに出向いては横で、仕事を耳で覚えていった。東京では、集金担当の専門業者を使っていたが、大阪では審査部の1年生が、集金に駆けずり回る役目だった。「とにかく現場に行け」といわれ続けた。

審査部の後は、鉄鋼原料部に配属となった。飯島の現場は、鋳物屋であり、鉄くず工場であり、鉄の粉砕工場であり、製鉄会社になっていった。飯島は、大阪の堺市や住之江区、東大阪市など、市の周辺地域の担当で、兵庫の丹波篠山などにも頻繁に足を運んだ。

鉄くずの山に上れば革靴が鉄先で切れ、船積みで届いた鉄くずの荷卸に立ち会えば、背広は鉄の粉に塗れてピカピカ光った。粉砕工場では商売の話をしただけで、鼻の穴が真っ黒になった。汗まみれの状態で、大阪支店に戻ると、上司からの鬼のような怒声が待っていて、1日1回は怒鳴られた。

次々と同期の人間が海外赴任した話が大阪の飯島の耳にも入ってくる。海外どころか鉄くずに塗れ、毎日怒鳴られる自分を慰めるように、仲間らと一緒に大阪、伊丹空港まで足を運び、ぼんやりと旅客機の離着陸を眺める日もあった。俺たちは本当に海外に行けるのか、誰もが心の中で自問自答していた。

では、飯島が所属した鉄鋼原料本部の中の鉄鋼原料部は、どのような部だったのか。鉄鋼原料本部は、鉄鋼原料のほか、鉄鉱石部、石炭部から構成されていた。

鉄鉱石部は、30年、40年かかる長期プロジェクトを抱え、取引先は新日鉄などの製鉄メーカーが中心。石炭部は、長期プロジェクトを抱えるが鉄鉱石部よりは短く、コークス、フリートレードなど一般産業向けとしての商売が中心。この2つは、長期的な仕事のスタンスで秩序立っていてチームプレーが重視される。

さて、飯島の鉄鋼原料部。これは鉄鉱石や石炭より川下の製品を扱う部で、取り扱う量も鉄鉱石や石炭のように何万トンの単位ではなく、キロ単位、ポンド単位の少量単位で、為替相場を読みながら売買も行う。扱う商品も多岐にわたるため、個人商店のような個人プレーが中心で、そのため個性的な人間集団が形成されていく傾向にあった。