※本稿は、本郷和人『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の第6章「江戸幕府はなぜ二六〇年続いたのか」の一部を再編集したものです。
「譜代大名は政治だけする」は本当か
譜代大名が政治を、外様大名には領地を、と振り分けることで、徳川家康は、家臣たちが強固な勢力を作る可能性を潰したわけですが、譜代大名のなかでも政治には一切関わらない者もいました。それが関東地方や東海地方の守りの要となる譜代大名たちでした。彼らは譜代大名ながら幕府の政治に関わらず、軍事・防衛を担うことになります。
江戸時代は二六〇年もの長きにわたり平和な時代が続いたので戦いはなく、軍事よりも政治が大事で、大名たちの役割は政治を執り仕切ることだった――私たちはそのように考えがちです。譜代大名が幕府の政治を行い、外様大名はそこに関わることができない。つまり譜代大名にとって重要なのは政治を行うことで、譜代大名のなかでも優秀な者が政治の中枢を担ったと考えがちです。
井伊家は本来、政治より軍事を任されていた
この譜代大名の代表的な存在として、「徳川四天王」という呼び方があります。もともとそのような呼び方は存在しなかったのですが、おそらくその原型となったと考えられるのが、新井白石の『藩翰譜』という書物です。
同書の譜代大名の紹介の部分で最初に記されているのが、酒井家、本多家、榊原家、井伊家の四家なのです。この四つの家を譜代大名のトップ、「武功の家」として描いており、おそらくこれが、徳川四天王のような呼び方になったのではないかと思われます。この四家は、酒井は庄内、井伊は彦根、また本多や榊原は姫路に置かれています。つまり、いずれも関東・東海地方を守り、外敵の侵入を迎え撃つ重要な軍事拠点に置かれているのです。
この事実を考えると、実は譜代大名にとっても、政治よりも軍事が上ということになるでしょう。有事の際には城に立てこもり、敵の攻撃を食い止めて、関東・東海地方に敵が侵入してくるのを防ぐ。そして、味方が援軍を出す時間を稼ぎながら、いざとなれば城を枕に討ち死にする。そのような軍事的行動を担う譜代大名のほうが、日本全国の政治を執り仕切った老中よりも上なのです。
ですから酒井、本多、榊原は原則として老中など政治の役職に就かず、幕府政治には関わりませんでした。井伊の場合は大老になっていますが、これは言うなれば名誉職のようなものです。幕末の頃の大老・井伊直弼だけが実際に権力を行使しましたが、これは例外的なことでした。