なぜ家康は江戸を拠点としたのか

このように、家康は軍事的にさまざまな備えをしていることがよくわかります。つまり家康にとって、関東・東海地方を徳川の譜代大名で固め、江戸を攻められないようにすることが重要な課題だったわけです。関東を治め、東北を討伐するという意味を持つ「征夷大将軍」を家康が選んだのには、こういう理由もあるのかもしれません。

家康は信長、秀吉とは異なり、京都・大坂といった畿内には近づきませんでした。家康は三河に生まれ、幼少期に育ったのは、今川氏に人質として連れて行かれた駿府です。その後は岡崎に戻り、武田家との戦いに備えて浜松に入るなど、江戸に移るまでは東海地方を本拠としていました。その意味では、京都や大坂には馴染めなかったということもあるのかもしれません。

そうであるならば、もし家康が信長のように「三職推任」で、太政大臣、関白、征夷大将軍のなかから選ぶことになったとすれば、やはり征夷大将軍を選んだでしょう。このようにみてくると、家康が江戸を自分の政権の拠点として選んだ理由は、西や北の敵から守りやすかったからではないかと思えてきます。

家康は一六〇五年、征夷大将軍の職を秀忠に譲り、江戸を離れて駿府に移ります。江戸の秀忠、駿府の家康という二頭政治的体制を取りましたが、大御所として政治の実権を握り続けました。天下人は家康であり、そのまま江戸に残ってもおかしくないわけですから、逆に将軍の秀忠が駿府に移って駿府幕府となる可能性もあり得たかもしれません。けれどもその後も将軍が代々、江戸に居住したことで、江戸が徳川政権の根拠地として確立されることになります。