なぜ徳川家康は天下人になれたのだろうか。作家で歴史ユーチューバーの堀口茉純さんは、「秀吉から命じられた関東への国替えに従ったことが功を奏した。江戸は交通の要所で、力を蓄えるのには最適な場所だった」という――。

※本稿は、堀口茉純『江戸はスゴイ 世界が驚く!最先端都市の歴史・文化・風俗』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。

徳川家康公之像(静岡県静岡市葵区黒金町)
徳川家康公之像(静岡県静岡市葵区黒金町)(写真=Akahito Yamabe/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

小田原征伐の陣中で決まった家康の関東転封

小田原を本拠地とする北条家は関東一円を支配した一族である。北条氏政・氏直親子は秀吉の上洛要請に応じず、惣無事違反もあったことから、秀吉は全国統一事業の仕上げとして、諸大名を総動員した小田原征伐を決定した。

天正18年4月、秀吉は小田原城に籠城する氏政・氏直親子を16万ともいわれる大軍勢で取り囲み、7月初旬に落城させた。

家康は娘を氏直に嫁がせていたため北条家とは親戚で、友好関係を築いていた。このため秀吉と北条家のあいだに入って和解を斡旋したのだが、開戦が決まると先鋒を命じられて豊臣方として小田原征伐に参戦した。

家康の江戸入りが決まったのは、この陣中のことである。経緯については様々な史料に同じような内容が記されているので、ここでは徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』の記述を適宜意訳して紹介しよう。