※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
ホンネを出しすぎるとバカをみる
織田信長が田楽狭間(桶狭間)を急襲して今川義元を殺したとき、徳川家康(この当時は松平元康といった)は今川軍の一部将として大高城にいた。
大高城は、織田方の丸根、鷲津の両砦に挟まれた今川方の拠点である。かなり織田領に侵入した前線基地で、だから田楽狭間より西方にあり、敵中に孤立していた。前日(永禄三年五月十八日)に、苦心して入城したばかりであった。
夕暮れになると、使っている乱破が忍んで来て、
「今川義元公が田楽狭間で、織田信長に討たれました」
という情報をもたらした。
家康は一瞬ギクリとし、心中はなはだ動揺したが、
「何をバカな。いい加減なことをいうな」
と乱破を叱りつけた。乱破は、はなはだ不満な表情をした。しかし家康は、
「そんな大事な情報が、もし虚報であった場合、義元公に申し訳が立たぬ」
と、あくまでも律儀なタテマエを口にする。そのくせ、乱破の情報を真っ先に信用したのは家康だ。
部将たちも、
「ほんとうかもしれません。早く城を出ないと、尾張(愛知県)へ凱旋する信長に攻め滅ぼされます」
と進言したが家康は、
「乱破ごときの言を信用できるか」
と突っぱる。じつは、この突っぱりが家康の常套手段で、やせ我慢のこの時間経過がタテマエをホンネに移行するプロセスになるのだ。
自分の本音を「部下に言わせる」理由
そのうちに、家康の叔父水野信元から義元敗死の報がもたらされた。しかし家康はそうなると今度は、
「この大高城を死守して義元公に殉ずる!」
などといいだした。重臣群は、
「そのお気持ちはわかりますが、かっこいいのもほどほどにして、この際、故郷の岡崎に戻りましょう。こんな城に長居は無用です」
と、寄ってたかって家康を連れ出した。しぶしぶ岡崎にもどった家康は、今度は城に入らない。城下の大樹寺に陣を張った。
「入城しましょう」
という部下に、
「いや、火事場泥棒のような真似はできぬ」
と突っぱる。またカッコいいタテマエをいって、と思うが、そこは心得た重臣が、
「今川義元公は、あなたを人質にし、領地の米もほとんど奪い取っていました。もう十分に義理は果たしたはずです。それに、城は空のようですから別段かまわないでしょう」
と家康のタテマエが立つようにもちかける。そこではじめて家康は、
「そうか、捨て城か。では入城しよう」
と、やおら腰をあげる。家康自身、誰よりも早く城に入りたいのだが、それは自分からはいわない。その点、ホンネを出しつづけた信長や秀吉とは違う。ホンネを出しすぎてバカをみる例を、家康は子どものときからイヤというほど見てきたのだ。
田楽狭間のときから家康は今川と縁を切り、信長と同盟を結ぶようになるが、そこにいたるお膳立てはすべて他人か部下にやらせる。自分はタテマエだけを主張して、手は汚さないのだ。狡猾な男である。