「本能寺の変」で見せた逃げ足の速さ
織田信長が明智光秀に殺されたときもそうだった。
六月二日の朝、京都の本能寺に泊まっている信長に、再度あいさつをしようと家康が支度をしていると、先発した本多忠勝が走り戻って来て、
「信長公が明智光秀に殺されました」
と告げた。誰がそんなことをいったと聞くと京都の商人茶屋四郎次郎だという。これを聞くと、
「商人のいうことなど……」
と、家康はまた鼻の先でセセラ笑った。
そのくせ、乱破や商人たちのもたらす情報が一番精度が高いことは百も承知だ。承知だが口には出さない。
やがて、信長が光秀に殺されたのがほんとうだとわかると、家康は、
「こうなった以上、ただちに京に入り、明智勢と戦って斬り死にしよう」
と勇ましいことをいいだした。
本多忠勝や酒井忠次たち重臣は、
「信長公にそんな義理はありません。まごまごしていると明智光秀に殺されてしまいます」
と、また寄ってたかって家康を逃げ出させる。
家康は、
「いや、いま逃げては信長公に済まぬ」
と脚をふんばる。よくいうよ、と思いながらも重臣たちは、
「おいやでしょうが、ここはひとまず」
と無理に連れ出した。
これも、ホンネはとっくにトンズラをきめこもうと心にきめているくせに、家康はタテマエしか口にしない。
しかも基幹情報のもたらし手である茶屋四郎次郎に対しては、
「たかが商人のいうこと……」
とバカにしたポーズをとる。オオカミが来る、オオカミが来るといっていた少年と同じで、そのうちに皆この二層性を熟知してしまい、家康がタテマエをいっても、
〈あんなことをいってたって、ホンネは別だ〉
と信用しなくなるが、この当時はまだその心理的カラクリは、側近以外にはバレずにいた。家康は重臣にせきたてられると、今度は自分のほうが先頭を走って、宇治田原→山田→信楽小川→伊賀の山越え→白子の浜から船で三河(愛知県)の大湊というコースで岡崎城に逃げもどった。その逃げ足の速いことは家臣たちが呆れるくらいである。