家康が認めた林羅山の問答

林羅山が、家康の御用学者であるということを如実に示したのは、「徳川幕府の性格と、徳川家康の立場」に、特別な意味を与えたことである。

それは、どういうことだろうか。家康は、幕府を開いた後、林羅山にこんなことを聞いた。

「おれの立場は、どういうものだ?」

この質問に、羅山はとまどった。家康がなにを聞いているのかわからなかったからである。しかし、「どういう意味ですか? もう一度いってください」などと聞こうものなら、家康に見離されてしまう。

「おれの立場はどんなものだ?」という質問は、実に重大である。羅山は考えた。

思い当たった。

それは、家康が、

──京都の朝廷と徳川幕府の関係をどのようにとらえたらいいのか? そして、徳川幕府の頂点に立っているおれは、日本の国で、いったいどういう位置を占めているのか? ということだと思ったのである。

うかつに答えられない質問だ。戦国時代には、「下剋上の論理」というのがあった。これは、孟子のいう「放伐の理論」を適用したのであって、主人殺しや、主人追放や、あるいは親殺し、親追放など、戦国武将たちは、必ずしも悪いとは思っていなかった。武田信玄が父の信虎を追放したのも、この理論による。

孟子は、このようにいっている。「徳を失った王はもう王ではない。したがって、その王がそのポストを禅譲しないならば、実力行使をしてその王を追うことができる。これを放伐という」

戦国の下剋上の論理は、すべてこの孟子の放伐の理論によっている。しかし、いまは平和な時代である。京都朝廷と徳川幕府の関係は非常に難しい。羅山は慎重に考えた末、こういった。

「主権というのは、やはり一つしかないと思います。主権は徳川幕府にあります。かつて、朝廷は武家に政権を委ねられました。したがって、現在、政権は武家にあると思います」

家康は、この答えを聞いて、

「フム、フム」

とうなずいた。満足したのである。

「それでは念のために聞くが、いまの京都朝廷はなんだ?」

第二の矢が放たれた。家康が本当に聞きたかったのはこのことである。

家康が「答えを聞いた」にとどめる理由

羅山のいうとおり、主権というのは一つで、二つも三つもあるものではない。

京都朝廷にも主権があり、徳川幕府にも主権があるということはありえない。京都朝廷に主権があるのならば、徳川幕府には主権がないということになる。

また、逆に徳川幕府に主権があるならば、京都朝廷にはないということになる。

そうなると、いったい京都朝廷というのはなんなのだ、ということが、家康の知りたいことであった。

知りたいというよりも、家康自身はすでに一つの考えを持っていた。かれは、はっきり、「京都朝廷には、すでに主権はない」と思っていたのである。羅山はこう答えたという。

「日本の王朝は、すでに滅びていると思います」
「そうか、なるほど」

ここは家康のずるいところだ。羅山の答えを聞いても、「おれもそう思うぞ」とは決していわなかったことだ。羅山のいったことを肯定してしまえば、自分もその説に与したことになる。だから、あくまでも参考意見として、学者に問いを発し、その答えを聞いたという形式にとどめたのである。

だから、家康自身は、羅山がそういっても、朝廷を否定したことにはならなかった。しかし、幕末に至って、討幕軍が江戸に押し寄せたとき、幕府の最高官僚であった小栗上野介は、いい放った。

「朝廷が、武家に政権を委任してからすでに数百年経つ。現在の朝廷に、幕府を討つ権限はない」

二百数十年後に、官僚がこういうことをいうくらいだから、徳川家康がこのとき交わした会話は、地下水脈として、ずっと徳川幕府の権力者たちに流されていたに違いない。

つまり、

「政権は徳川幕府にある」

と思っていたのである。この理論構成は重大である。