「全盲スイマー」と呼ばれる木村敬一選手は、東京パラリンピックで金メダルを獲得した。幼少期から目が見えない中で、どのように世界のトップに上り詰めたのか。木村選手の著書『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社)より、一部を紹介する――。(第2回)

※本稿は、木村敬一『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

東京パラリンピックで“金メダル”の「全盲スイマー」

僕は「全盲スイマー」だとか、「盲目の金メダリスト」と呼ばれている。と言っても、僕のことを知らない方も多いと思うので、本稿では、僕がこれまで歩んできた道、考えてきたことをご紹介させていただきたい。

2021(令和3)年に行われた「東京2020パラリンピック」では、100メートルバタフライS11で悲願の金メダルを、100メートル平泳ぎSB11では銀メダルを獲得した。

はじめて出会う人からは、「目が見えなくて大変ですね」といってもらうことが多いのだけれど、僕としては「目が見えない世界」が日常だから、「えぇ、まぁ……」と曖昧な返事になってしまうことが多い。

1990(平成2)年9月11日、木村家の第2子、長男として僕は誕生した。生まれた直後はほかの子と同じように目が見えていたようだ。

でも、少し成長して、食卓の縁につかまって伝い歩きをするようになると、ほかの子よりも、あるいは3歳上の姉のときと比べても、角にぶつかって転ぶシーンが目立つようになったという。そこで母が眼科に僕を連れていくと、医師から衝撃的な宣告を受けることになる。

「この子はいずれ、ほぼ確実に視力を失います」

東京パラリンピックで金メダルを獲得した木村敬一選手
写真提供=プレジデント社
東京パラリンピックで金メダルを獲得した木村敬一選手

物心がついたときには“光のない世界の住人”だった

僕が生まれた滋賀県内の眼科では手の施しようがなく、滋賀から700キロも離れた福岡大学病院で診察を受けることになった。その後、2歳4カ月で最初の手術を受けた。しかし、まったく事態は改善せずに、さらに視力は低下してしまう。

こうしたことが何度も繰り返され、三度の入院で計7回の手術を行ったのだけれど、手術のたびに僕の目は悪くなる一方だった。この間も、両親は滋賀の実家と福岡の病院を行ったり来たりしながら、懸命に僕の目のことを心配してくれていた。

しかし、7回も手術をしたのに好転の気配もなく、病院の先生からは「敬一君は、盲児として育ててください」と宣告され、母もまた「これ以上、息子に痛い思いをさせたくない」と決心したという。

こうして僕は、物心ついたときにはすでに光のない世界の住人となっていた。そして、それが僕にとっての「日常」となったのだ。だから、多くの人から「大変ですね」と心配されても、おそらくその人が思っているよりは大変じゃない。

むしろ大変だったのは、両親、特に母のほうだろう。全盲の子どもを育てる親の苦労なんて、想像するだけでも「本当に大変だろうなぁ……」と、まるで他人事のように思ってしまうのだ。