「プールの中なら迷子にならない」という母の胸の内
僕は目が見えないけれど、幼い頃から活発で元気な少年だった。小さな頃から、3歳上の姉の助けを借りながら野山で遊び回る、ごく普通の男の子。なにも見えていないのに、むやみやたらと走り回るものだから、僕はいつも泥だらけ、傷だらけだったそうだ。
小学校3年生の頃には、「野球」に夢中になった。鈴の入ったバレーボールを使った「野球」では、何度も特大ホームランもかっ飛ばした。
そして、小学4年生のときには、近所のスイミングスクールに通うことになった。このとき、母の胸の内には、「プールのなかには障がい物もない。迷子にだってならない」という思いがあったという。
確かに親にとってみたら、ケガの心配も迷子の心配もない、子育てするには完璧な、最高のアイデアだったはずだ。僕自身も体育の授業を通じて水泳には興味を持っていたし、すでにクロールで泳ぐこともできていたので、まさに渡りに船の提案だった。
こうして僕は本格的に水泳を習うことになった。まさかそれ以来、現在に至るまでずっとプールとともに歩むことになるとはまったく想像もしていなかった。
選手は“参加する”だけではダメ
中学生の頃に「パラリンピックに出る」という目標ができた。そして、猛練習の甲斐あって、高校3年生だった2008年の北京大会出場を決める。
この大会では、自己ベストを5秒も上回る記録を出したのだが、最高が5位入賞で、メダルには手が届かなかった。大会前には「出られるだけでも十分だ」と思っていたけれど、実際にメダルを逃すと悔しさが募ってくる。
よく、「参加することに意義がある」という。だけど、当事者の選手にとっては「参加するだけではダメなんだ」というのが真実だ。こうして、この日から僕の目標は「絶対に金メダルを獲る」に変わった。それから4年後、僕は日本大学の4年、22歳になっていた。
そして2012年、ロンドンパラリンピックに出場する。本命の50メートル自由形ではメダルを逃したけれど、自分でも期待していなかった100メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した。
順調に結果が伴っていたからこそ、僕は当然のように、「4年後のリオパラリンピックでは金メダルだ」と思っていた。
もちろん、そのための努力は怠らなかった。それまでよりもさらにハードな練習を自らに課したし、日頃から「金メダルのために」とストイックな生活を実践した。
それでも、リオ大会でまたしても金メダルを逃してしまった。たかだか三十数年の人生かもしれないけれど、もしも誰かに「人生で最大の挫折は?」と尋ねられたら、僕は迷いなくこのときの経験をあげるだろう。
結局、リオ大会では5日連続でレースに出場して、初日は銀、2日目は銅、3日目は銀、4日目は銅、そして最終日は5位に終わった。
次の大会は東京で行われることが決まっていた。母国開催で金メダルを目指すにはなにかを変えなければいけない。いや、すべてを変えるべきだ。こうして僕は、なにもツテがないのにアメリカ留学を決めた。