自らを大物に見せるには、どうすればいいのか。作家で歴史ユーチューバーの堀口茉純さんは「若き日の徳川家康もネームバリューを求めていた。系図を偽ってまで源頼朝、足利尊氏という幕府創業のビッグネームにつながる血筋だと主張した。なぜなら、『次の幕府を開くのは自分だ』という野望があったからではないか」という――。

※本稿は、堀口茉純『江戸はスゴイ 世界が驚く!最先端都市の歴史・文化・風俗』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。

今川義元像(静岡県静岡市葵区黒金町)。隣の少年は竹千代(幼き頃の徳川家康)、静岡市のシンボル
今川義元像(静岡県静岡市葵区黒金町)。隣の少年は竹千代(幼き頃の徳川家康)、静岡市のシンボル(写真=Akahito Yamabe/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

もともとは小豪族の長男で、幼名は竹千代

徳川家康は、いったいどの時点から将来自分が幕府を開くことを意識したのだろうか。私はかなり早い段階で高い志を立てていたのではないかと考えている。その根拠となるのは改名と改姓だ。

家康は西三河(愛知県中部)の小豪族で岡崎城主の松平広忠の長男として生まれた。幼名は竹千代。

松平家の領国は東に今川家、西に織田家という有力な戦国大名に囲まれており、いつどちらに侵略、もしくは吸収されてもおかしくない危機にさらされていた。

このため竹千代は6歳から織田家の人質となり、8歳の時に父・広忠が家臣に暗殺された後は今川家の人質となった。そして14歳の時に今川家で元服し、当主の今川義元の元の字を与えられて、松平元信と名乗るようになる。

祖父は味方に殺されて死んだ非業の英雄

ちなみに、人質というと、「虐げられていた」というイメージを覚えるかもしれないがこの場合はそうではない。今川義元は家康に一流の教育を施し、自身の姪と結婚させて今川一門に準ずる扱いをした。松平家の後継者である家康を取り込むことで西三河の領地を円満吸収しようという下心があったと思われる。

ただ、このころに家康は松平元信から松平元康に改名している。元康の康は祖父の松平清康の康。清康は三河(愛知県東半部)統一まであと一歩のところで味方に殺されて死んだ非業の英雄だ。

私にはこの改名は「このまま今川家に吸収されて終わるつもりはない。いつか自分が祖父の悲願の三河統一を果たす」という決意の表れのようにみえるが、考えすぎだろうか。

永禄3年(1560)、19歳の時に桶狭間の戦いで庇護者であった今川義元が織田信長に討たれると、家康は岡崎城に帰り、地元の三河平定に着手。織田信長と同盟を結び、今川家からの独立を果たした。この時点で今川義元の元の字を捨てて名乗り始めたのが、松平家康という名である。

血筋を偽って徳川と名乗る

家康の家という字はどこからきているのかというと、源義家の家。八幡太郎義家の愛称で知られる源義家は平安時代後期、奥州での合戦などで大活躍をした源氏の棟梁とうりょうで、源頼朝や足利尊氏の先祖にあたるスーパーヒーロー的存在の武将だ。

そして家康は永禄9年(1566)、25歳の時に念願の三河統一を果たすと「実は松平家は八幡太郎義家の流れをくむ清和源氏の名門・新田家の末流で、下野国新田荘世良田得川(徳河とも)郷に地盤を持った得川義季の子孫なのです!」ということで、家名を松平から徳川に改め、徳川家康と名乗るようになった。

お察しの通り、この徳川への改名時のストーリーは捏造ねつぞうである。

家康の8代前の松平氏の始祖・親氏は、乞食僧だったという説もあるほどの素性の知れない人物で、諸国を放浪した末に三河国松平郷に流れ着き、有力者の婿養子となって松平親氏を名乗った。